聖学院大学聖学院みどり幼稚園各校情報
【NEWS LETTER No.286】 聖学院の歴史 ― ルーツは140年前にあり!―(2/3)
■ 伝道から教育へ
ーー宣教師たちが学校を作ることになった経緯を教えてください。
菊地 まず基本的に、聖学院も含め宣教師たちが作った学校というのは、伝道者を養成するためのものでした。日本人の伝道者を生み出し伝道を広げるための学校です。現在のような一般教育を行う学校とは少しニュアンスが異なっていました。日本に来た宣教師たちは最初熱心に伝道を行っていました。しかし日本人の伝道者の必要性を感じ、学校が作られるようになります。ガルストも当初はそういう教育は恐らく考えていなかったと思います。聖学院神学校を作ったガイが来日したのはガルストの10年後でした。
赤田 日本に外国人が滞在するためには現在のビザのようなものが必要でした。ガルストは、外国人の滞在目的を作るため、秋田英和学校というものを作っています。
菊地 それは宣教師が国内を移動できるように?
赤田 それと長期滞在のためです。ただ、スミスやガルストも教鞭をとっていますし、その後、ミスハリソンなど後続の宣教師も授業をしています。伝道と教育を共に行っていて、ガイが聖学院神学校を作る流れにつながっているのかもしれません。
菊地 ガイは聖学院神学校に先駆け、1896年に一度私塾を作っています。ガルストが病気になったことで頓挫した記録がありますから、やはり両者の間に協力関係はあったと思いますね。
村松 私の専門の方から言うと、日露戦争前後の時期は若者が将来に希望を持てない、まさに「生きづらさ」が広まった時代なんですね。大日本帝国の見かけの「発展」とは裏腹に、世の中には閉塞感が広がり、いわゆる社会問題も表れ始め、物心両面で苦しむ人が多く出ました。1904年は自殺者が1万人を超えたという説があるほどです。若い人たちが精神的な支柱を求め、新渡戸稲造や内村鑑三のもとに集まってきたのもこの時期です。それだけに1903年の聖学院神学校設立はミッション側の判断に加え、明治末期の閉塞した日本を、キリスト教によって新たに切り拓こうとする主体的な意志も関わっていたように思います。
杉淵 秋田としては秋田英和学校はとても大きな意味を持ちます。当初は宣教師の長期滞在のために作られた学校ですが、教育分野にも力を入れるようになります。ガルストから洗礼を受けた評論家の青柳有美(※2)が、この学校から巣立った後、教師として秋田の多くの若者たちから支持されていたことなどは、秋田英和学校の教育がとても魅力的であったことを物語っています。この学校で洗礼を受けた人が東京のミッションスクールで働くなど、秋田から都会に出て行く一つの流れを作ったように感じます。また、秋田英和学校とは直接関係ありませんが、反戦平和を謳った日本最初のプロレタリア文学雑誌『種蒔く人』の創刊同人の一人も、秋田で伝道する人々の姿に心を打たれて、ディサイプルス派に入信しています。
ーー聖学院神学校と女子聖学院は、ほぼ同時期に作られています。何か意図があったのでしょうか?
菊地 基本的には別々に始まっています。女子聖学院は、日本の伝道における学校の必要性を感じたアメリカの外国クリスチャン伝道協会が設立を提言しています。特に牧師となった人を支える女性の必要性を考え、女子教育が重視されていました。そういったビジョンの中、すでに日本の大阪にいたクローソンに白羽の矢が立ち、1905年に女子聖学院が作られます。それに対し、聖学院神学校はガイの強い思いから始まっています。ガイは私塾が頓挫した後、休暇でアメリカに戻ります。その際に様々な人に働きかけ、資金を集め、聖学院神学校設立が実現します。
赤田 聖学院神学校を作るにあたり、すでに聖学院中学校を作る話がガイと聖学院中学校初代校長を務めた石川角次郎の中ではあったという記録があります。
菊地 聖学院中学校は石川角次郎に校長になってもらう約束をとりつけて始まったということです。そのあたりにガイと石川角次郎の親密な関係性がうかがえます。
ーーガイ博士、石川角次郎先生、クローソン先生はどのような人物だったのでしょうか?
菊地 ガイは非常に能力の高い人であったと思います。ギリシャ語やラテン語に精通し、日本語も堪能でした。ガイが隣の部屋で話していると、日本人が話していると思われるほどだったそうです。石川角次郎が亡くなった時、ガイはすでにアメリカに帰国していたのですが、教育使節団の団長としてたまたま日本に来ていました。石川角次郎の葬儀に参列したガイは、東洋の思想や仏教用語も引用しながら弔辞を述べたそうです。
石川角次郎は結構ユーモアがある人だったようです。例えばデモクラシーという言葉を学生に教える際「でも暮らしいい」と駄洒落を交えて教えた逸話があります。後に聖学院理事長になる甥の石川清氏も、角次郎は面白い伯父さんだったと記しています。人間味に溢れる人だったようです。だから生徒からも慕われていたと思います。
クローソンはスクールマザーと呼ばれていました。学校の母と呼ばれるぐらい生徒から慕われたということです。遊びに出かけた生徒が夜遅くまで帰らなかった時も、生徒を怒らず一緒にお茶を飲んで話をしたというエピソードがあります。
石川角次郎はアメリカ留学中にディサイプルス派に入ります。帰国後ガイと出会い、教育に対する考え方で意気投合します。学校で直接生徒に伝道するのではなく、授業を通して伝道する。一般教育を通してキリスト教を伝える。この姿勢が二人の共通点でした。そういう形での伝道の精神は今でもずっと貫かれていると思います。それは聖学院の良い伝統だと思います。
村松 当時はまだ中里の辺りは滝野川村ですから今で言う東京という感じではなかったのでしょうね。
菊地 何もない本当に田舎でした。
村松 明治末期から大正にかけての中里は北に行くと軍関係の施設がいくつもあって、一方で東に進むと膨張する東京から遠ざけられた工場や施設が集積した地帯があり、そこで働く人々は、いわれなき差別や偏見にさらされることもありました。どちらも近代日本の「陰画」と呼び得る場所ですが、中里はそういう地域と近かっただけに、聖学院神学校から生まれた滝野川教会にしても聖学院中学校にしても、いわゆる「ハイクラス」の人たちではなく、隣接する地域の労働者や社会的に困窮している人たちへの伝道や教育を自覚的に行なっていた可能性はありませんか?
菊地 それはあると思います。
杉淵 私もその点については、やはりガルストの意思を受け継いでいると思います。
菊地 ガルストは貧しい人たちにとても心を寄せた人です。妻ローラの書いたガルストの伝記の原文には、日本人の10年間の生活費の比較資料が出てきます。ガルストはその伝道を通して日本人の困窮を知っただけではなく、そうした客観的な資料にも当たって、それを的確に把握しながら、身の回りの困窮者に対して非常に具体的に関わっていたのです。当時、アメリカも南北戦争や産業革命による工業化に端を発する労働者の問題を抱えていました。同じような構図をすでに経験済みだったのです。ガルストはそうしたアメリカを参考にしつつ日本人の救済ということを考えたのだと思います。
※2 青柳有美
明治から昭和前期のジャーナリスト、随筆家。明治26年から「女学雑誌」にかかわり、のち主幹。大正にはいって「女の世界」の主筆となった。本名は猛。著作に「恋愛文学」「有美臭」「有美道」などがある。
(参照元:コトバンク https://kotobank.jp/)
創立当時の聖学院中学校校舎