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聖学院大学聖学院みどり幼稚園各校情報

【NEWS LETTER No.286】                       聖学院の歴史 ― ルーツは140年前にあり!―(1/3)

4人の教員によるトークセッション 菊地順先生 × 村松晋先生 × 杉淵洋一先生 × 赤田直樹先生

牧師であり聖学院の歴史に詳しい菊地順先生、日本のプロテスタント史に造詣の深い村松晋先生、秋田県出身で文学とディサイプルス派の伝道に詳しい杉淵洋一先生、ディサプルス派の伝道ともゆかりの深い秋田の幼稚園で園長を勤め、現在聖学院みどり幼稚園園長である赤田直樹先生。それぞれの専門分野から光を当てることで先人たちの軌跡を立体的に考察します。


聖学院はディサイプルス派の宣教師が日本での伝道と、社会貢献のために作った学校です。H・H・ガイが1903年に聖学院神学校を作り、その3年後に聖学院中学校を設立。バーサ・F・クローソンが聖学院中学校に先立ち女子聖学院(神学校・1905年)を開校しています。さらにその先人として日本での伝道を始めたのは4人の宣教師であるガルスト夫妻とスミス夫妻です。彼らは今から140年前の1883年に来日し、翌年の1884年に秋田から伝道を始めます。鎖国が終わり近代化を急ぐ日本に来た宣教師たちの旅が、どう教育につながるのか。4人の先生にお集まりいただき、聖学院の創成期をうかがいました。

■身の回りの人々に手を差し伸べることから始まった伝道

ーーディサイプルス派の伝道は秋田から始まります。なぜ秋田だったのでしょうか?

赤田
 当時日本にいる宣教師の間で様々なネットワークがありました。ガルストとスミスが日本に来て横浜に滞在している時、他の教派のポート宣教師という方が2人に「まだ宣教師が1人も入っていない、秋田はどうか」とアドバイスをしてくれたそうです。2人はそれを神様のご計画だと受け取って秋田に行ったそうです。

杉淵 ポート宣教師はその時点で10年以上盛岡を中心に宣教していてかなり日本語が堪能だったようです。ガルストとスミスは秋田で武家屋敷を借りて、そこを拠点にしています。その武家屋敷を借りる時もポート宣教師がとても力になってくれたそうです。

村松 明治維新以降、日本のクリスチャンは佐幕派(※1)出身の士族を中心に広まります。つまり明治新政府のもとでは社会的に上昇しづらい人たちがクリスチャンになっていきます。たとえば東北の場合、諸藩は戊辰戦争において奥羽越列藩同盟という新政府と対立する姿勢を取っていました。しかし戊辰戦争に敗北の結果、この同盟にかかわった諸藩は明治新政府の元では立場を失います。それがキリスト教への内面的な渇きにつながっていきました。旧仙台藩士の中には函館を訪れ、正教会のニコライに出会った人々がいます。彼らは日本を新しくしていくのはキリスト教だと確信し、ハリストス正教を受け入れ、熱心に教えを伝え、北東北を中心に教会が成立しました。他にも、明治学院創立に関わった井深梶之助は会津藩出身ですね。東北以外でも、たとえば内村鑑三は佐幕派藩士の子弟ですし、植村正久は旗本(※1)の家の出ですから、いずれも新しい時代の「陰」に置かれた人たちです。
一方秋田は東北でごく少数の官軍側(※1)です。そのため周辺諸藩に比べてキリスト教への渇望が希薄だったのではないかと思います。これは仮説ですが、ガルストとスミスが来日時に秋田が取り残された状況にあった理由の一つにそういった事情もあったのではないでしょうか。

杉淵 地形的な影響も大きかったと思います。ガルストとスミスが秋田に行った時は日本に鉄道がほとんどありませんでした。けもの道のような陸路を行くか、横浜から船で津軽海峡を渡るしかありません。先日のニュースで取り上げられていたように、秋田は夏に雨が降ると豪雨になって川が氾濫しますし、冬になれば、奥羽山脈が雪で埋もれ孤立します。秋田へ行くのには多くの困難がつきまとったのだと思います。

赤田 秋田に行くと決めた時に、ガルストとスミスは周りの宣教師たちから「とても危険だからやめた方が良い」と言われたそうです。

ーーそれでも秋田に行ったガルストとスミスはどのような人物だったのでしょうか?

杉淵 当初ガルストとスミスはアフリカに行きたかったそうで、未踏の地を選ぶようなフロンティアスピリッツの持ち主だったようです。私が調べた印象では、ガルストはとても情熱的で気持ちが強い人物です。そのため秋田でやってやるという気概があったのではないかと思います。

菊地 来日前の話ですが、ガルストは、妹が同じディサイプルス派の洗礼を受けたいと言った時、次の日曜まで待たずに「すぐ教会に行こう」と言ったそうです。決断力と実行力に富んだ人で、それが行動の端々に出ていると思います。

杉淵 ガルストは秋田県の近代化に対してもいろいろ助言をしています。地元の有力者に発電と送電、鉄道と工場を作らなければ近代化できないということを言っています。だからガルストはキリスト教の伝道というより西洋型の近代化を秋田に起こそうとしていたのではないかとも感じます。まずは身近な人たちの暮らしを考え、その流れの中でクリスチャンになってくれる人がいれば良いという人物だったという印象がとても強くあります。
 ガルストは45歳で亡くなります。その際夫人に遺言を聞かれ、「My life is my message.」と答えています。「私の人生が私のメッセージだ」という最後の言葉にも実行の人だったということが見て取れます。

赤田 ガルストはどんどん外に出ていくタイプだったようです。秋田に来てから数週間のうちに40キロ以上離れた本荘に行ったり、また100キロ近く離れた院内というところにも行っています。

菊地 一方スミスは秋田を中心に伝道しています。

杉淵 スミスは非常に控えめな人で、あまり表立ったことはしない人でした。動のガルスト、静のスミスという感じで、もしかしたらバランスを取っていたのではないかという気がします。

ーー秋田での伝道と、地元の人たちの反応はどうだったのでしょうか?

赤田 秋田はキリシタン時代に多少キリスト教が入っています。ただやはりその人たちへの弾圧があったので、恐らくキリスト教への警戒心が強かったと思います。

杉淵 そもそも西洋人が来ること自体がとても珍しいことだったので、地元の人たちがガルストたちが住む武家屋敷の障子に穴を開けて覗きに来ていたそうです。ただそういうことに負けない人たちなので、秋田に来てすぐに聖書を販売したり、バザーを開いたり、講演会などを催したりしました。スミス夫人は最終的には日本語で演説ができるようになったという記録が残っています。

菊地 スミス夫人は地元の女性たちを集めて生活に役立つことを教えていました。いわゆる伝道だけをしていたのではなく、生活全体で秋田の人たちの中に入っていこうと努力していたのだと思います。そのスミス夫人が1年も経たないうちに亡くなります。そのことも周囲の人々に大きく影響を与えたようです。遠くアメリカから秋田に来て人生を終える、そのことを通して神の福音を伝えようとした姿勢が人々の心を開いていったと記録にあります。やはり行動といいますか、生き様が徐々に受け入れられていったのではないでしょうか。

赤田 とても貧しい人たちが信徒になったという記録があります。(秋田以外は)キリスト教は士族に受け入れられやすいというお話がありましたが、ガルストたちの姿勢として、上位階級から伝道しようとしたのではなく、日々大変な思いをしている人たちにこそ伝えようとした様子がうかがえます。

村松 親のない子どもなど社会的弱者に最初に働きかけたのは日本の場合、どちらかというとカトリックですよね。プロテスタントは先ほども述べたように士族や豪農に入っていった傾向があります。そのような中においてガルストたちは物心両面において、貧しい人たちの生活の中に入っていきました。そのようなあり方はとても貴重だと思います。その流れに聖学院があることは大変誇らしく感じます。

※1 佐幕派・旗本・官軍
佐幕派とは朝廷権力の復活を目指す勤王派に対して江戸幕府政策を擁護する勢力。旗本とは江戸時代1万石未満の幕臣(江戸幕府の家臣)の総称。官軍とは朝廷方の軍隊。勤王派。

それぞれの専門分野から意見を交わす先生方

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