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& Talk_キリスト教教育が示すもの

対談 高橋 恵一郎×柳田 洋夫

NEWS LETTER No.281 取材日/2021年10月

中学生、高校生、大学生は自己の存在について揺れ動く年代です。 クリスチャンか否かに関わらず 礼拝、聖書、ニーバーの言葉など、キリスト教教育は生き方の1つの答えとして、私たちを支え、光をもたらします。

(左から)●柳田 洋夫:聖学院大学 大学チャプレン・人文学部教授。関心領域はキリスト教倫理学、日本キリスト教思想史。[翻訳]ラインホールド・ニーバー『人間の本性』『人間の運命』(髙橋義文・柳田洋夫)、アリスター・E・マクグラス『歴史のイエスと信仰のキリスト』など。●高橋 恵一郎:女子聖学院中学校・高等学校チャプレン、宗教部長、聖書科主任。関心領域は子どもたちへの伝道。[著書]『聖書と子どもたち みことばを届けるために』(共著)、[翻訳]『プロテスタント教会の礼拝ーその伝統と展開』(共訳)

――聖学院はミッションスクールです。礼拝と聖書の言葉をとても大切にしています。しかし生徒、学生の多くは礼拝という言葉や聖書は知っていても、聖学院に入るまでキリスト教が身近ではなかったかもしれません。一方「神を仰ぎ 人に仕う」という建学の精神は、全学院を通じて在校生に非常に広く深く浸透しています。さらにはその保護者にまで、他者貢献の精神が培われている例も稀ではありません。
イメージしにくい反面、その精神は伝わっている聖学院のキリスト教教育。その本質について、聖学院大学のチャプレン、柳田洋夫先生と女子聖学院中学校・高等学校のチャプレン、高橋恵一郎先生にお話を伺いました。

生徒、家族、学院のため チャプレンの使命は祈ること

ーーチャプレンとは、学校においてどのような役割を担われていますか?

高橋 チャプレンはキリスト教教育を行なっている学校、キリスト教社会事業団体などに在籍している牧師で、日本基督教団の定義では教務教師に分類されます。その組織にいる方々が礼拝をささげられるように環境を整え、執りなす存在です。

柳田 高橋先生のおっしゃる通り、教会の外の場で働く牧師でしょうか。欧米由来ですが、元々は学校だけではなく軍隊や病院などで働く役割だったようです。教会の外で礼拝や祈りを中心に働く。それを通じて、伝道、福音を宣べ伝える役割も担っていると思います。

高橋 またチャプレンの姿が生徒、教職員にとってキリスト教のシンボルになるのではないかとも思っています。シンボルとは、目に見える物を通して目に見えない姿、形を指し示すものです。私たちの存在によって生徒たちが神様を意識することができるなら、これは重要な役割だと思います。

以前PTAのキャンプに参加した時、学校の先生に「高橋先生はいつも学院のために祈っていてくださいます」と紹介されたことがあります。とても印象的な言葉でした。もちろんチャプレンなので生徒のために祈るのですが、生徒だけではなく保護者や家庭、教職員や関係者のために祈ることこそチャプレンの仕事だと改めて教えられた気がします。それ以降、私はことあるごとに祈っています。生徒とすれ違ったときには、祝福の祈りをしています。

またクリスチャンファミリーの子どもたちを支えることもチャプレンの重要な役割です。この学校に赴任したときのクリスチャンファミリーは、5%ほどでした。10年ほど前は約7%で、先日調査をしたら10%に上がっていました。日本ではクリスチャンの総数が減っている中、校内では10%のご家庭がクリスチャンのファミリーであるという事実は、とても大きな意味をもちます。私たちに期待されているものも大きいように思います。

一方、クリスチャンファミリーの子どもたちが教会につながりにくくなっているような状況もあります。信仰から離れたり、場合によっては教会に行っていることを公言できない生徒もいます。そうした子どもたちを支えて応援していくのも重要な役割で、見えない形でのチャプレンの仕事です。

柳田 祝福という言葉には私も感じるところがあります。キリスト教の学校なので、卒業式は礼拝形式で行います。式が終わった後、普段は全くキリスト教に関心のなさそうな卒業生に「先生、私のために祈ってください」と言われたことがあります。その言葉を聞いて、私も自分の存在を知らされた気がして、喜んでその場で祝福をしました。

問うことを通して問われていることに気づく

ーーキリスト教教育としては、具体的にはどういう授業をされてますか?

高橋 ミッションスクールによって違うと思いますが、私たちの学校の場合は、聖書からの学びが中心です。中学1年生はキリスト教の基礎的な内容と聖学院の歴史についてを学びます。中学2年生、3年生は新約聖書を読みます。そして高校1年生、2年生は旧約聖書を読み、高校3年生は自分の生き方を、聖書を通じて考える授業をしています。全学年が聖書に基づく授業です。

以前は教会史などの別の要素も加えていました。しかし、触れてほしいのは歴史ではなく、聖書を通して語りかけてくださる神様の言葉です。生徒の多くがノンクリスチャンという事実は踏まえつつ、そのことを意識しすぎずに十字架のことや罪のあがないについてしっかり語っています。生徒は一生懸命勉強して吸収してくれているのではないかと思います。

先日、生徒たちに受洗の調査をしました。「あなたは受洗を過去に考えたことがありますか? あるいは将来、洗礼を受けると思いますか? 全然考えていませんか?」という3択の質問です。私の予想では「全然考えていません」という回答がほとんどだろうと思っていました。ところが相当の数の生徒(101人 生徒全体の15・4%)が「受洗を過去に考えたことがある」「あるいは将来、洗礼を受けるかもしれない」というところに印をつけていました。これには驚きました。以前あるグループが渋谷や池袋で30~50人ぐらいを対象に同様の調査をしたところ、受洗を考えたことがある人は0でした。聖書の言葉や讃美歌に触れることで、最初は遠い存在だったかもしれない信仰が、生徒の中に生徒なりの形で流れているのではないかと思っています。

柳田 大学のカリキュラムにはキリスト教教育に関連する科目が多数あり、様々な学問と相関性をもって学ぶ形になっています。1年生には基礎的なことを学ぶ「キリスト教概論」があります。2年生になると「キリスト教と文学」「キリスト教と音楽」「日本キリスト教史」などを学びます。3年生からは学部に沿った専門的な科目になり、政治経済学部には「キリスト教社会倫理」、人文学部には「キリスト教文化論」、心理福祉学部には「キリスト教人間学」があります。

大学も多くの学生がノンクリスチャンです。また、学生は学問を学びにきているということを踏まえ、宗教学や一般論的な角度から話をすることがあります。ただ、そういう時は学生の反応があまりよくありません。後からアンケートを見ると、一般論ではなくキリスト教の話を聞きたいという声が多いんですね。学生は、知的な満足だけではなく、自分の生き方、在り方に力強く語りかけてくる何かを求めているのかもしれません。

聖学院大学の一つの大事な学問としてラインホールド・ニーバーの研究があります。ニーバーの祈りの中に「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。」という有名な言葉があります。また「人間というのは自分の体も含めて自然の中に巻き込まれていながら、それを超える精神を持つ存在だ」というテーゼがあります。これらを授業で紹介したところ、学生から「響きました」といういくつもの感想が寄せられました。そういう学生の反応を見るにつけ、人間は目に見える物の中に生きていながら目に見えない物を仰ぎ見ずにはいられない存在なのかもしれないと思います。

人間は、自分の生き方在り方というものを常にどこかで問うていると思います。直接問わないにしても「何で今日上手くいかないんだろう」という小さな疑問も、自分の生き方在り方につながっている問いだと思います。近代以降は、そういう問いに対しても個人主義的な傾向が強く、人は自分の中で解決しようとしています。しかしキリスト教は、ともすれば内側に閉塞しがちな個人というものに対し、外から強力に光と力と導きを与えてくれます。

人間の実存的な問いに答える側面がある一方、キリスト教が私たちに問いかけてくる側面もあります。私たちは様々なことを神様に問いかけたくなります。祈りで一生懸命に問いかけることも、自分の思いを注ぎ出すこともよいでしょう。しかしその前に、まず神様から問いかけられている存在なんだとも思います。聖書には、言いつけに背いて隠れているアダムとエバに対し神様が「どこにいるのか」と問うところがあります。「あなたは今どこにいるのか?」という根源的な問いです。そこから我々の生き方在り方への問いも始まるというのが、事柄の本質だと思います。

聖学院の“DNA” 受け継がれる建学の精神

ーー聖学院は他者貢献の精神が生徒、学生に根付いています。キリスト教教育の影響と言えるのではないでしょうか?

高橋 聖学院は牧師を養成する神学校から始まったというルーツがあり、これは非常に大きなDNAではないかと思います。宣教師、牧師を育てるということは、聖書を学び、礼拝する者を育てるということになると思います。礼拝をする者、聖書を読む者というのは自己完結せず、自然と視野が広がっていきます。東日本大震災の時にも生徒たちに釜石でのボランティア活動を呼び掛けたら、有志で参加者が集まってくれました。新型コロナウイルスで中断するまで、その活動は継続されていました。あえて続けようとしたというより、生徒たちにとっては継続することが当然のことだったようです。

柳田  釜石でのボランティア活動に関しては大学も同じです。やはり新型コロナウイルスで今は活動できていませんが、それまでずっと釜石に関わり続けてきました。他者のために生きるという精神は、元々聖学院にあったと思いますし、それはやはり大事にしていきたいと思います。 そもそも、聖学院の祖とされるガルスト宣教師(※)自身、秋田において、布教活動と併せて地域を助ける活動や社会貢献をしていました。他者、社会への奉仕の精神が、建学の祖とされる人物の中にすでにあったことも、現代まで脈々と続いてきた要因ではないかと思います。

ーー柳田先生は研究においても建学の精神を意識されていますか?

柳田  それは私も常に念頭に置いています。ニーバーは、一方では難しい神学、哲学を展開していますが、他方では大多数の幸福やそのための社会の仕組みなどを追求しています。若い頃は労働運動にも関わっていました。ガルストに負けず劣らず、他者や社会のために尽くす人で、まさに「神を仰ぎ 人に仕う」という精神の持ち主です。私もニーバー研究を通じて建学の精神を伝えていきたいと思っていますし、できると思っています。だから研究と建学の精神は、私の中ではいつも触れ合っています。

分裂や対立が深まる今 キリスト教教育が示すもの

ーーキリスト教教育を通じて、生徒、学生に自己実現してほしいことはなんですか?

柳田 ワクチンを打つ打たないなどをはじめ、新型コロナウイルスによって、いろいろな意味での分断や対立が表面化してきていると思います。誰しも感情的になりやすく、何が正解で何が正義なのかも見失いがちです。これからますます自己中心的な生き方や考え方が公然と語られるようになっていくのではないでしょうか。自己責任という言葉もその一例です。そのような中、最近大学では一つの教育目標として「良き隣人となる」ということが強調されるようになりました。シンプルですが非常に大事なことだと思います。自分のためにだけ生きている限り誰も幸せにはなれません。学生には一生覚えておいてほしい言葉です。

高橋 女子聖学院中高にはクローソンホールの前と中庭に、祈りの姿勢を持ってぬかづく少女の像があります。1961年の秋に高校2年生の生徒が作った作品です。この少女の像は、私たちが目指す生徒のあるべき姿を表していると思います。 柳田先生がおっしゃったように今の社会においては、分断が深刻化してきていると思います。他者の罪を指摘しがちです。しかし人は皆、神の前に罪人です。もう一度この出発点に立ち返ることで許しと融和が生まれるのではないでしょうか。ぬかづく少女の像はまさにその象徴です。神の前にぬかづいて、神の御心を求め従い生きていく、生徒にはそういう人になってほしいと思っています。

(取材日/2021年10月)

※チャールズ・E・ガルスト
聖学院の祖とされ、スミス夫妻と共に、伝道が楽な大都市ではなく、あえて秋田から伝道をはじめました。伝道の中、栄養不足の子どもたちが多いことを知り、早くから乳牛を飼うなど、人や地域のために尽力した宣教師です。

ラインホールド・ニーバー
〔アメリカの神学者・政治哲学者(1892-1971)〕の祈り(大木英夫訳)

神よ

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、
変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。