歴史特設サイト

ヒストリアHistoria

Historia4「生徒の数を限定し、真の人格教育を」-聖学院中学校創立期-

石川角次郎

石川角次郎

 1905(明治38)年日露戦争は終局となった。しかし講和条約の内容に不満を持つ一部大衆は、日比谷で大会を開き、それが暴動化して焼打事件に発展したり、10数か所の教会が焼かれたりした。
 このような社会情勢下において、敢えて、キリスト教主義の聖学院中学校設立の計画を進めた先覚者の悲壮なまでの執念が伝わってくる。もっとも、この中学校を開設し、校長には石川角次郎を、との構想は3年余り前、ガイ博士が聖学院神学校創設時から持っていたのであり、それはその時の本国宛報告にも明記されていた。(「聖学院神学校史」の項20頁~参照)。彼等はキリスト教の精神によらなければ、教育の目的は遂げられないとの確信を持っていた。そして、キリスト教精神によってこそ、日本人は救われるのであるという大きな理想と確固たる信念により聖学院中学校は創立された。
 こうして、1906(明治39)年、米国ディサイプルス教団外国伝道協会の援助により、神学校に続いて、ガイ博士の初志でもあった中学校教育の種は、滝野川村中里の椎陵に播かれたのであった。
(中略)

創建時代の本校舎

創建時代の本校舎

 開校当時のことをマッコイは、後年次のように述べていた。「私は中学校開校当時のかがやかしい情景、ことに初代校長石川角次郎先生、創立者ガイ博士のはれやかな喜悦に満ちた姿を思い起こす」
 しかし開校が九月で時期が悪かったので応募者も少なく1年生8名、2年生8名が入学許可となったが、聖中学報第3号、1936(昭和11)年11月発行の聖学院中学校30年略史(委員、小田信人 大矢木台吉 海野次郎)によれば「明治39年9月第1学年に9名第2学年に8名総計17名の生徒と9名の教師をもって開始したわが中学校は…」とある。また同じ号にR・D・マコイが聖学院中学校の回顧として「設立当時は第1学年と第2学年だけで、然も両学年合わせて生徒数は僅かに17名に過ぎませんでした。私は開校当時から毎週各学年に2時間宛英語を教えていたと記憶しています。…」と2つの記事で初年度の生徒数17名となっている。従って始業式から間もなく1年生1名が加わり17名の生徒で初年度がスタートしたと思われる。
(中略)
 石川校長の方針は、生徒の数を限定して量よりも質に重きをおき、真の人格教育を徹底的に行うにあった。(『聖学院中学校三十年略史』、1936年)

『聖学院中学校高等学校百年史』P.38-42より一部抜粋

ページトップ