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Historia3「学生たちの向学心に灯を」-聖学院英語夜学校創設期-

R.D.マッコイ

R.D.マッコイ

 1904(明治37)年9月、滝野川に聖学院本校舎が落成すると共に、神学校はここに移り、同校内に、同年10月、聖学院英語夜学校が開校された。「聖書之道」第77号、(1904年11月)に、「英語夜学校は10月4日より開校の運びとなったが、入学者がはなはだ多く現在100名を超え、なお続々申し込みがある由。一体、夜学校の位置としてはすこぶる不便なため、当事者はやや懸念した様子であったが、設備の良好と教師の博達者たる名声と相まって、むしろ今に至ってはこの好結果は当然であったことを感ぜしめる」とあるように、開校当初からかなりの人気があり盛況を呈していたようだ。今日からは想像もできないような不便な交通事情であり、民家もまばらにしかなく、街灯とてもなかった野中の夜道を通学していた当時の向学心に燃えた学生たちの心意気が伝わってくる。
 教員の陣容を見ると、校長石川角次郎、教師にはH・H・ガイ博士、同夫人、R・D・マッコイ、石川林四郎(石川角次郎の弟、のちの東京文理科大学教授)、宮崎八百吉(湖処子と称し、詩人、小説家、評論家)、文学士十時弥、文学士森巻吉(のちの第一高等学校長)、神保格(のちの東京理科大学教授)、佐伯好郎(のちの早稲田大学教授)、若槻紫蘭、酒井勝軍、平野秀雄(ガイの秘書)らが数えられる。

日誌

開校時(1906年)
の業務日誌

 石川角次郎校長は、1905(明治38)年10月第20回基督教会年会(「聖書之道」第87号)において、聖学院英語夜学校開校一年後の状況について次のように述べている。
 「聖学院英語夜学校の級は1、2、3の3組に分かれている。昨年11月以来の入学者は1年級81名、2年級73名計154名である。この中、昨年の学年の終期までにて3ヶ月以上の無届欠席者総計は40名である。退学者は5名いたが、これらは高等学校および他の官立学校へ入学し、或は官吏となった者である。教員数は8名英語学校の在籍者154名中、3ヶ月以上の無届欠席者が40名いたようだ。が、昼間働いて疲れた体で夜の外国語の勉学は苦しいものであったろうか、外人教師を含む新鋭教授たちによる授業には魅力もあり、充実していたようである。
 聖書の道、第92号(1906年)の「学校通信」には「聖学院英語夜学校は100名以上の出席生を有し非常に盛大である。このたび三井信君には英語夜学校の卒業証書を受領された」と報じられていた。
 1909(明治42)年のミッションへの報告には、「英語学校はこの1年素晴らしい成功を収めたとは言えません。出席率は昨年よりもかなり悪いものです。学生のほとんどは事務員や店員で、月謝や教材費を払う余裕がないのです。昨年の夏、2人の学生がやっと満足できる成績で課程を終了し卒業しました。鉄道や市街電車の便がもっと良くなり、この学校の支持者がふえれば明らかに素晴らしい成功を収めるでしょう」と記されている。

 校長石川角次郎が、1909年秋、米国のピッツバーグにて開催されたディサイプルス派の教団創立百周年記念大会に、日本代表として出席することとなり、英語学校を一時休校にした。その後、1910(明治43)年再開されたものの以前のような盛況にはいたらなかった。そして衰退の一途をたどり、開校以来12年、大正2年のミッションへの報告、「本年度の学生数は62名」を最後に具体的な報告はなされていない。
 社会情勢の影響、教授陣の異動、それにミッションからの援助の問題その他が重なったことにもよろうが、キリスト教の講義を混じえながら、当時としては珍しい英語授業という新風を起こし、熱意ある学生たちの向学心に灯を燈し続けてきた聖学院英語夜学校はこのようにして幕を閉じた。

『聖学院中学校高等学校百年史』P.27-28より一部抜粋

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