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Historia2「聖学院」の名の由来

ガイ博士

ガイ博士(Hervey Hugo Guy

 ガイ博士が1903(明治36)年2月、神学校を創立した時、校名は最大の資金寄付者ドレーク将軍名をとって「ドレーク・バイブル・カレッジ(Drake Bible College)」と命名された。しかし日本名は未決定で、当時の『聖書之道』記事にも、翌月に『福音時報』の紹介記事にも、単に「神学校」とあった。「聖学院」の名が初めて現れたのは同年10月の『聖書之道』で、それには「滝野川に新築された神学校聖学院は本月(10月)6日開校式をあげた」とあった。
 命名者について、『女子聖学院五十年史』(1956年刊行)には「校名を『聖学院』と命名したのはH・H・ガイか宮崎八百吉あたりであろう、との平井庸吉院長の談話」が紹介されてあるが、当時、教授の有力メンバーであった石川角次郎は、『椎陵』の中に「我等は君が学園を『聖学院』と名付けた」と明記しており、当然に命名に加わっていたはずである。

 石川の「二十年回顧」と題する『椎陵』第10号(1926年)の校名由来の部分を抜粋して紹介しよう。

 我等は君が学園を「聖学院」と名付けた。その意義は、聖なる学院ではなく聖学の院である。聖学とは聖人の学である。聖人の学とは、聖人の教を学ぶばかりでなく、学んで聖人となるのである。されば本校の理想は聖人を養成することである。(中略)世の人は、聖人といえば、千万人中一人在るのみと考えるが、そうではない。若し聖人という者が、我等凡人には到底なれない者ならば、それは珍しいというだけのもので、余り価値はない。何人でも其学を修め其道を行へば、それに成れるのでなければならぬ。然らば聖人とは何か。孔子曰く、「吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩」と。是は、孔子の如き人でも、斯の如く修養しなければならぬことを教えると同時に、斯く修養すれば何人にても聖人の域に進むことが出来るということを教えたのである。「心の欲する所に従って矩を踰えず」というのが、修徳の極致で、聖人の聖人たる所以である。小我と大我の合致である。学校修身に謂う所の「自我完成」である。キリストの謂う「永生」である。「汝等もし常に我が言に居らば、真に我が弟子なり。また真理を知らん、而して真理は汝等に自由を得さすべし」とキリストは教へられた。此自由を得たる者が聖人なのである。中庸に曰く、「君子之道費而隠。夫婦之愚可以与知焉。及其至也雖聖人亦有所不知焉。夫婦之不肖可以能行焉。及其至也雖聖人亦有所不能焉。」と。茲に謂う所の、費にして隠なる君子之道を修めて行けば、聖人となることは必ずしも難しくはない。
 以上に述べた聖人論については、意見の違う人もあろうが、兎に角そういう意味で『聖学院』と名付けたのである。中学5年で聖学が了るのではない。聖学は生涯続くのである。中学は其基礎をすえるだけである。

 以上のように、聖学院中学校初代校長石川角次郎は「聖学院精神」について、聖学院とは「聖なる学院ではなく、聖学の院である」と述べている。

神学校

神学校校舎

『聖学院中学校高等学校百年史』P.13-14より一部抜粋

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