この人に聞く ニューリーダー2004年11月号 (page3)
精神のない専門人
心情のない亨楽人


 − アメリカ企業の相次ぐ不祥事や経営破綻劇は、日本に比べて優位といわれたガバナンス能力もさることながら、経営倫理の問題も露呈しました。理念なき経営の限界が改め て問われているのではないですか。

 大木 そのとおりです。ハンチントンの本が指摘していることは、1960年後半から9・11に至るまで、アメリカはキリスト教の主流派が非常にリベラルになったのに対し、それに対するリアクションが保守的キリスト教の勃興だというものですね。リベラルというのは、アメリカではかならずしもよい意味ではないのです。それは同性愛者同士の結婚を認めるということがリベラルなのです。プロテスタント・キリスト教的伝統からの離反が起こりました。
 マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本で、それはちょうどハルナックと同時代でしたが、アメリカ資本主義のプロテスタント的倫理的性格を分析しました。その最後に、三つの可能性を述べました。第一は、アメリカではやがて宗教倫理的な意味は取り去られ、経済活動もスポーツ化し、競争しながらやがて「鉄の檻」の中に入っていくか。第二に、それとも「新しい預言者たちがあらわれて、かつての思想や理想の力強い復活が起こるか」。第三に、そのどちらでもなく「精神のない専門人、心情のない享楽人」という末期的人間となるかだというのです。社会学者というよりは旧約聖書の預言者のような言葉をもってそう結んでいます。
 果たして今度の大統領選挙がアメリカをどの道へ向かわせるか、予断を許さない状況です。日本は、プロテスタンティズムの倫理なきアメリカナイゼーションに巻き込まれてい る、そのことを憂慮しています。

  − テクノロジー優先ということでは日本も同じですね。先ほどプロフェッショナルスクールの新設ラッシュの話がありましたが、それは産業界のニーズなんです。大学は専門かつ高度な知識やスキルを持った人材を育てて輩出すべきだと。

 大木 大学は人類の知的遺産の継承者であり、また、現代の社会変動をガイドする新しい知の生産者でなければなりません。繰り返しになりますが、大学は社会のニーズに対応 しなければならないが、知性の独立を保持するのでなければならないと思います。
 アメリカのベル研究所の研究員が実験結果を偽造したという有名な事件がありましたが、それは現代の動向に潜伏している病原の発症のようなものです。神学の一分野に社会倫理学があります、わたしの恩師ラインホールド・ニーバーはその分野の学者でした。ところが、社会倫理は今日、ソシアル・エンジニアリングによって侵されています。すべてがエ ンジニアリングになる、工学部が支配する、そうであってはならないのです。神学部を切除して工学部を入れる、それが今日の問題の源泉です。
 日本の大学から出ていくのは、「精神のない専門人、心情のない享楽人」ばかり、それではだめです。企業のメカニズムを動かすだけで、疲れ果てて人生を終わる、それではあまりに哀れな話ではないでしょうか。これからは「人間」が問題です。ヴィンデルバントは、真善美を総括する「聖」の概念を重視しました、大学における知の総合とは「聖」なる概念を要請します。そういう大学が新しく必要だ、「聖」を冠する聖学院大学はそのような理念をもって設立されました。

 −最後に、アメリカといかにつき合っていくべきでしょう。

 大木 一言で言えば、日本国憲法を守ることですね。評論家の竹村健一氏は北朝鮮問題との関係でアメリカとの結びつき強化を言いますが、憲法のデモクラシーを前提としての 安保条約であることをよく考えねばならないでしょう。日本を守るのは、デモクラティックな新しい日本であって、戦前に憧れる日本ではない、その点で彼の言論は矛盾しています。
 日本国憲法は、戦後日本が新しく生きるための基礎であり、また国際社会にとりわけ近隣諸国との関係で信頼をかち取るための根拠です。それが国連安保理事会のメンバーを欲 する以前になすべきこと、つまり「敵国条項」を克服する道なのです。この憲法がアメリカとの対等な付き合いの根拠なのです。憲法や教育基本法の改正を唱道した中曾根元首相 のような政治方向は、日本の将来を決して幸福にするものではないとわたしは考えています。 ムというのは、マイナスをプラスに転回する精神が見る夢なのです。アメリカには「ボーン・アゲイン」(生まれ変わる)ということを言うプロテスタント・キリスト教の一派がありますが、それがアメリカ的生き方の一般性格にまでなっているんですね。だからアメリカは、そういう意味でもプロテスタント的な文化の国なのです。(了)

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