聖学院教育が目指す方向について_1

 聖学院教育が目指す方向について (第3回聖学院教育会議講演)

[ 2002年11月14日 第3回聖学院教育会議 ]

                    

学校法人聖学院 理事長・院長 大木英夫   

 2002年11月4日の朝日新聞の社説「日本の将来像が見えない」という題の一文 は政府の経済財政白書への批判でした。「改革なくして成長なしII」という、昨年に続いて同じ題だが、続きである以上今年期待していたのは「それによってどんな社会になるのか」という将来像の提示であったのに、それが見あたらない、「日本の将来像が見えない」というのであります。この社説は今日の日本の一般の不満を代弁しているようなものであります。なぜ「日本の将来像がみえない」のでしょうか。

 最近話題の元日本長期信用銀行につとめた箭内昇氏著『メガバンクの誤算』を読みました。今日の急務となっている銀行の改革が一向に進まないのはなぜか、その問題点を鋭く抉り出したものでした。この人の結論は、「企業を動かすのも、企業に動かされるのも人間だ」(iii)、「信頼の回復と企業風土の改革」であり、「さらに集約すれば銀行マンの頭と心の改革だ」(281)、単なる機構いじりではすまない、結局は「人間の問題」だというのであります。「風土」という言葉は「エートス」という言葉で言い直すことができます。

  これを読んで戦後大塚久雄先生が『近代化の人間的基礎』という本で、エートスの問題を重視したことを思い出しました。エートスとは倫理的基盤とか社会的雰囲気を意味します。精神風土と言ってもよい、ヴェーバーが用いた言葉であります。「頭と心の改革」はそのエートスの改革を指しているのではないでしょうか。この人は、たしかに現代の問題を正確に捉えています。人間が問題だ、それが銀行問題にも出ていると見る、しかしそれは、すぐれて教育が取り組むべき課題ではないでしょうか。

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 今日日本の将来像が見えないのは、その目に見えない社会の深層に過去半世紀にわたって沈澱している問題が、目に見える部分に関わって出てきたからであります。これを人は第二の敗戦と言います。それは第一の敗戦のように日付を持たない、長々しい敗戦として国民的に経験されているのであります。第一次の敗戦に至る戦争の初期に「どこまでつづくぬかるみぞ」というやや厭戦的な歌が歌われました。世論調査では、小泉内閣の支持率は高い、しかし小泉首相の改革に期待できないという、この矛盾は何でしょうか。田中真紀子前外相の有名なせりふ、「前に進もうとしてもだれかがスカートの裾を踏んでいる」、この言葉は当たっているところがあるのです。 構造改革というのは、日本社会をグローバル・スタンダードに合わせようとする改革だと言ってよいでしょう。グローバリゼーションとは金融界に最初に取り入れられた言葉でした。 ところが、その銀行の改革が進まない、産業界の改革も遅れている、日本的経営を根本から見直さねばならない、しかし「日本の将来像が見えない」、それはグローバリゼーションのスカートの裾を誰かが踏んでいるからであります。人間の問題とは何か、その深い問題次元で逆噴射がある、それが教育基本法改訂の動きで目に見えるようになり出し、そして今や相当な段階にやってきているからであります。

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 「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」という中央教育審議会の中間報告案が出ました。それは、多くの言葉をもって関心を拡散させながらあたかも兵士が自分を隠蔽するように偽装して、「日本人としてのアイデンティティ(伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心)」を潜入させようとしている点で、この改正のまぎれもない本質をあらわしているのであります。というのは、その他のことは現在の教育基本法で果たしうるようなことであり、ただこの愛国心の一点で、教育基本法の本質と矛盾するからであります。

 

 この一点は教育基本法改訂をめざした動きにになわれてその姿を示してきました。これはいわゆる教科書問題にも出ているナショナリズムの復活の執拗な努力と軌を一にする動きであります。しかし、これが日本の「人間の問題」の本質に関わるものなのであります。強靱な生命力をもつ蛇のように、今それが頭をもたげてきたのであります。そこには明治以来の「和魂洋才」の再生のもがきがあります。小泉改革が構造改革と言っているのはグローバリゼーションへと日本を合わせることであり、そのかぎりではたしかに前向きであるが、愛国心を取り戻すという改正を推し進める、それは「人間の問題」との取り組みにおいて後ろ向きになっているという矛盾なのであります。小泉首相は、最近も中国から靖国参拝問題で批判を受けておりますが、靖国参拝問題は、深く愛国心問題に関わる問題で、先鞭をつけたのは中曾根氏でありました。政府が靖国神社を無視したら誰も国のために死ぬことはしなくなることを知っているからであります。それは「政治的」な参拝であり、それ以外のものではないのであります。しかし日本国民の誰が再び靖国神社にまつられることを欲するでしょうか。

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