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献堂式式辞

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旧女子聖学院短期大学元学長
W・G・クレーラ

 上尾キャンパスに、このような素晴しい聖学院大学のチャペル兼緑聖教会の礼拝堂が完成されましたが、本日、この献堂式に参加できることは、私達にとって嬉しい限りです。
 1967年――今から37年前に――女子聖学院短期大学がこの上尾市に開学されました。その時の施設は、1号館の前半分の3階までと、現在の7号館の所に、40人ほどの学生を収容できる学生寮、この2つの建物しかありませんでした。その後、短大の発展に伴い、施設が拡充され、聖学院大学が出来てからは、3号館の増築、5号館、7号館、8号館の建築がされました。短大が改組転換の形で四年制大学に組み込まれて、本日この施設の完成を見ることが出来ました。
 今日は、このキャンパスでの教育に貢献された方で、今日の献堂式に参加することが出来ない、既に召天された4人の方について御一緒に考えたいと思います。何れもキリスト教信仰の人生を全うされた方です。先程読んで頂きました聖書の言葉を引用しますと、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」(ヘブル11:1-2)とありますが、このキャンパスの高等教育、また、幼児教育や生涯学習についてのビジョンを持って、貢献された4人の方々です。

 先ず、石川 清先生、学校法人聖学院の理事長をされた方です。石川先生は実業家で、住友系の大平洋海底線という電話ケーブルを引く会社の社長をなさい、その当時の先端技術の普及に貢献された方です。1951年から、1979年まで学校法人聖学院の理事長を勤められました。
 女子聖学院短期大学は、1967年に設立されましたが、その設立の準備の時、必ずしも聖学院理事会の理事全員が賛成したわけではなかったようです。女子聖学院の中高の校長の小田信人先生、その他の理事の強い願いがあり、石川清理事長がこれを受け入れて、設立が決定されたのでした。女子聖学院短期大学の設置に尽力して下さいました。
 また、短大設立後9年経った1976年の緑聖教会の設立についてもご指導されました。その提案があった時、石川理事長と当時滝野川教会の牧師であられた大木英夫先生との話し合いがなされました。この時も石川理事長は、大木先生の提案を快く受け入れられ、「短期大学を設立したことの大事な目的の一つは、キリスト教の伝道をすることですので、教会ができることについて賛成します」というようなことを言われました。
 更に、その2年後、1978年に今の聖学院みどり幼稚園が設立されましたが、その時も石川清理事長は、聖学院の発展とキリスト教の伝道を考えて決断されました。石川先生は、きっと天においてこのチャペル兼礼拝堂ができたことを喜んでおられるに違いないと思います。

 次に、御一緒に考えたい先駆者は、千葉儀一牧師です。千葉牧師は、1939年から1963年まで滝野川教会の牧師を勤められ、聖学院の理事でもあられました。教会のことと聖学院のことをお祈りの中で覚えておられましたし、1975年11月9日に召天されました時に、滝野川教会では千葉先生の記念のため、伝道所を設立することに決まりました。それが緑聖教会の始まりでした。その後短大の全学礼拝の時、また大学ができてからも、教室兼全学礼拝の部屋に使われる教壇が千葉先生の記念として寄贈されたものを使ってきました。

 3番目に御一緒に考えたい先駆者は、福田ソノ子先生です。福田先生は、女子聖学院短期大学ができて初期から学寮の寮母として学生の指導に全力を尽くして奉仕されました。福田先生は学生に教会の礼拝に出席するようと指導されましたが、近い教会がなかったため、短大の宗教主任や学長に依頼して、日曜日の午後ないし夜に寮生対象の礼拝を行う計画を立てられました。1976年に緑聖教会ができましてからも、福田先生は寮生が緑聖教会の礼拝に出席するよう奨励しておられました。
 同時に何れチャペルが学内に出来るだろうことを見越して、そのために募金をはじめました。学園祭の時には、ミニバザールを設けて、その売り上げの一部をチャペルのために貯金されていました。それから、学生が卒業し、就職した時に、最初の月の給与からチャペルのため献金するようとアピールなさいました。いつかできるであろうチャペルにステインドグラスも是非できるよう、福田先生も学生も夢見ておりました。1992年の3月で寮は閉鎖になり、福田先生はその後、就職センターで学生の指導をなさいましたが、惜しくもその5月に先生は急病で、お亡くなりになられました。

 第4番目に、小田信人先生を思い起こします。小田先生は、女子聖学院の中学高等の校長であられましたが、当時の文部省のある諮問機関の委員になられました。その諮問機関の提言により、義務教育の必修である道徳教育という科目の代わりにキリスト教その他の宗教を教えることが認められました。小田先生のご貢献であります。
 1950年に小田先生は、アメリカに行き、大学の設置の必要を訴え、資金の援助を訴えました。残念ながら、その願いはその時はかないませんでした。小田先生は、がっかりして日本に戻られましたが、その夢を実現する計画と努力を継続なさいました。アメリカに行かれた17年後の1967年に女子聖学院短期大学ができ、小田先生がその初代学長となられました。
 小田先生のビジョンの中に、高等教育に加えて、上尾キャンパスにチャペルや教会ができる夢を見ておられましたし、その実現に努力なさいました。小田先生は、学校法人の理事長にもなられ、緑聖教会の実現は御覧になられましたが、四年制大学の開学もチャペルの実現をも見ないで、1985年にお亡くなりになられました。
 「信仰によって、アブラハムのように、聖学院の先駆者達も受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)と言えましょう。
また、「これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えてくださっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。」(ヘブル11:39-40)

 この四人の先駆者の他、大勢の方々の祈りと援助があって、現在の聖学院大学があるのですが、今日の献堂式の恵みを感謝しつつも、次ぎのことを覚えたいと思います。
それは、ビジョンを見た人が、必ずしも自分の人生の終わらないうちに、その実現を見ることが出来るとは限らない、ということです。
 「こういうわけで、わたしたちは、このように多くの証人に雲のように囲まれているのである」(ヘブル12:1)。本日の献堂式は、到着点だけではなく、将来に向かっての出発点でもあります。私達には神の更なる召しを受け、「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちも参加すべき競争を耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:1-2)。

お祈りいたします。
 天の父なる神様、本日の聖学院大学のチャペル兼緑聖教会礼拝堂の献堂式を執り行なわれましたことを心から感謝致します。この建物や付属施設が御栄えを表すものにして、多くの方々がここで真の神様と出会い、有意義な人生を送ることができますよう切にお祈ります。過去に対して感謝、現在に対して責任、将来に対して信仰と希望とを与えて下さいますよう、イエス様のみ名によって、お祈りいたします。アーメン

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