「居場所」となるために

2015/12/01   先生のことば

 イエスさまがひと足、ひと足、近づいてきてくださっていることを感じる季節になりました。
 先週末には、聖学院小学校の新しいチャペルでの初めての点火式が厳かに行われました。幼稚園・小学校はじめ聖学院ファミリーの皆で祈りつつ進めた準備を神様が祝福してくださって、豊かな時間が流れました。ハンドベルの澄んだ音色、讃美奉唱の美しい歌声、聖句暗唱の凜とした声…。暗闇の中に浮かび上がった、まばゆい光をまとったツリーを見上げながら、私たちの心の中にもイエスさまをお迎えする準備のための明るい灯がともされたように感じました。

 街では、教会の暦とは関係なく、随分早い時期から華やかなイルミネーションが飾られ、大音量でクリスマスソングが流れています。日本のクリスマスは、賑やかできらびやかなイメージがすっかり定着してしまっているのかもしれません。けれども、一番初めのクリスマスは、本当に何もない、牛の声しかしないようなベツレヘムの家畜小屋の中で、貧しく静かに始まりました。
 “神さまの独り子”かつ“救い主”の誕生であるならば、大きな宮殿の豪華なベッドが用意されてしかるべきでした。けれど、私たちの主イエスさまは、家畜小屋の飼い葉桶の中に誕生されたのです。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(ルカによる福音書2章7節)

 短いこの聖書箇所が、“居場所のない救い主”とその家族の現実を私たちに教えてくれています。臨月のマリアとヨセフの旅は急ぐことができず、ようやく目的地のベツレヘムに着いた時には、宿屋はどこもいっぱいでした。けれども、偶然とも言えるこの出来事にも、神様の深い御計画があるのです。
 どこにも居場所のない人たちの気持ちを理解して救うために、どんな境遇の人とも寄り添うために、主イエス・キリストはあえて硬い藁が布団の飼い葉桶に寝かされたのです。

 今年の夏休み、居場所のない子どもたちが巻き込まれた事件が相次いで報道されました。事件の全容が明らかになるにつれ、居場所を失ってしまった若い命が犠牲になったことが残念でなりませんでした。
 「神様は、独り子のイエスさまを十字架にかけてまであなたを愛してくださっているよ。」「たとえ世界中の全ての人があなたの敵になっても、イエスさまは共にいてくださるよ。」「あなたは、神様の宝物だよ。」…そのことを知っていれば…と歯がゆく思わずにいられませんでした。せめて、誰か一人でも「生まれてきてくれてありがとう。」と伝えてあげられていれば…。

 行き不透明で、何が起こるのか予測できないこれからの時代を生きていく子どもたち。壁にぶつかったり、谷底に落ち込んだり、人間不信に陥ることもあるかもしれません。そんな時、インマヌエル(=神は我々と共におられる)と呼ばれるイエスさまが、家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれてくださったことを思い出して欲しいと思います。私たちがどんなに辛く、苦しく、惨めになったとしても、神様は決して私たちを見捨てられないことを思い出すことができるからです。
 こんな時代の今だからこそ、イエスさまが、すべての人の「居場所」となってくださることを、しっかりと伝えていくことが求められているように感じます。

 アドベントの期間、イエスさまによって私たちはどんな時にも希望を持つことができることを喜び、感謝して、大切に過ごしていきたいと思います。

 宗教部 相浦 智

学校だより「けやき」第452号より

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