教師は太陽? それとも月?

2014/11/04   先生のことば

keyaki_440 今から15年以上前、私が教師になりたての頃のことです。研修会後の食事の席で、私の授業観、教師観をひっくり返す、まさにコペルニクス的転回がおこりました。

 その会話の口火を切ったのは、ある学校のベテランの先生でした。
「今日の授業は今ひとつだったな。」
この一言は、私にとって少し意外に感じられたのでした。なぜなら、その研修会で公開された算数の授業は滞りなく進み、その後の協議会参加の教師の発言も、その授業を高く評価するものが大半を占めていたからでした。

 「先生、でも子ども達はお行儀良かったですし、話も真剣に聞いていました。ノートだってしっかり書いていました。どこが今ひとつだったのですか。」
わたしは、思い切って疑問をぶつけてみました。
すると、
「今日の子ども達、主体的に動いていたかな。動かされていたんじゃないかな?」
との答え。そして、その先生の思い描く理想の算数を語ってくださいました。どんな子であっても、良い問題を前にすれば、「解きたい」「解決したい」という意欲を持っている。授業の主導権を子ども達に預けた方が子ども達が主体的に動く。そして、子ども同士の交流が始まり、生き生きした授業になる。教師は教えようとせず、良問を適切に提示し、子ども達が学び合う環境を整えるべき。その先生の主張の要点はおおよそこのようなものでした。

 教師は子ども達を教え導く存在だと思っていた私にとって、これらの言葉は衝撃的でした。

 話はいつしか「子ども達にとって教師は太陽か、それとも月なのか。」という話題に変わっていきました。
「教室の太陽は子ども達だ。」
「でも、教師の方が子ども達を照らす存在なんじゃないかな。」
こんな議論が交わされ、気がつくと周りの先生達も加わって、話が盛り上がりました。
「子ども達は、自ら光り輝く力を持っている。でも、教師は太陽である子ども達に照らされていないと輝くことの出来ない月のような存在なんだよ。」
またも、そのベテラン先生の一言に「なるほど」と思いました。この太陽と月の論争も、私の教師観を根底から覆すきっかけになったのです。
 暖かい鍋を囲みながら、鍋以上に熱い会話が繰り広げられた夜でした。

 さて、新校舎の竣工まで2ヶ月を切りました。工事現場では足場が外され、校舎の外観が確認できるようになりました。実は、この校舎のコンセプトの根底に流れているのが、「子どもは教室の太陽」という考え方なのです。教室の壁を取り払い、オープンなスペースを作ったのも、子ども達同士が学び合うための場所として考えられています。また、iPadや実物投影機、それらを映し出すプロジェクターなどの教室内のICT機器は、教師が教え込むためにあるのではなく、子ども達同士の考えを伝え合うための機器としてとらえられています。

 教室の外に目を向けても、児童が立ち入れないところはほとんどなく、学校の主役である子ども達が実際に身を置き、見て触れて体験しながら学べるようになっています。

 建物の仕上げも急ピッチで進められていますが、同時にここで始まる学校生活の仕組み作りも教師間で議論しながら急ピッチで進められています。

 2ヶ月後に完成する新校舎が、学校の太陽である子ども達がさらに明るく輝ける場所であるように願っています。

教務部 宮原 献

学校だより「けやき」第440号より

月別アーカイブ

sub_blogside
ページのトップへ戻る