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&Talk -ダイバーシティ社会の聖学院教育-

聖学院NEWS LETTER No.273

教育と多様性

 


今日、様々な場面でダイバーシティという言葉を耳にします。
しかし多様性とは具体的にはどういうことなのでしょうか?
そして教育はどう貢献できるのでしょうか?
聖学院中学・高等学校と聖学院大学の先生、留学生の3人にお集りいただいて話を伺いました。


鼎談者プロフィール

伊藤 豊

聖学院中学校・高等学校 国語科、教育統括部長、テニス部顧問。1968年横浜市生まれ。立教大学文学部卒業。カリキュラムポリシープロジェクトメンバーと共に、ポリシーと授業、体験学習を紐づける仕組みを構築中。2010年より「タイ研修旅行」を担当し、事前・事後学習プログラムの作成、引率、レポート集の発行などを行っている。

八木 規子

聖学院大学政治経済学部准教授。津田塾大学卒業。民間調査研究コンサルティング会社の国際事業部門に勤務の後、米国カンザス大学より博士号(Ph.D., Business Administration)を取得。米インディアナ州バトラー大学助教を経て、2013年より現職。専門は組織行動論、ダイバーシティ・マネジメント、異文化マネジメント、質的研究手法。

ドリス・アワンドゥ・アウィノ

聖学院大学人間福祉学部こども心理学科3年。1993年ケニア生まれ。アフリカ最大規模のスラム街、キベラスラムにあるマゴソスクールに9歳から21歳までスクールのなかに暮らしながら通う。セカンダリースクールを創業し、マゴソスクールで助手を務めた後、聖学院大学へ留学。

 


ダイバーシティと聞いてどんなことをイメージしますか?

ドリス グローバルな…属している社会や宗教とか無関係に誰もが参加できる差別のない社会のようなものを想像していました。日本語で調べたときに、人材のことが出てきて、あまりピンときませんでした。

伊藤 検索してみたら、人材活用の話ばかりですよね。

八木 語義的には、ダイバーシティとは『違い』を意味し、国籍、ジェンダー、障害を持つ、持たないなどあらゆる『違い』が含まれます。日本では、ダイバーシティという言葉がビジネスにおける女性の活用、という文脈から広まったため、調べると真っ先に人材の話が出てきてしまいます。
そもそもダイバーシティが経営に入ってきたのは、アメリカが一番最初です。黒人に対する差別は社会的不公正であるとされ、ビジネスも公正(equity)を目指さなければならない、となりました。しかし、ビジネスは儲からなければ続きません。単にクオータ制(管理職などに女性・黒人など少数派を一定の割合を定めて積極的に登用する)のように、ある属性の人たちを一定数雇わなきゃいけない、ではなく、多様性を会社の業績に繋げるよう考えなければならないという段階に至ります。例えば、女性の観点から見ることで、男性目線とは異なる商品の使用法や改良点が出てきます。それを商品開発に取り入れれば、会社にとってメリットはあるし双方にとっていいことです。ここにきてはじめて人材開発の面でのダイバーシティが出てきます。日本ではそうした歴史的な変遷はあまり知られていないのかな、と思います。

ダイバーシティの到来をどんな時に感じますか?

八木 聖学院大学でいえば、やはり留学生が増えたことだと思います。日本人の学生と留学生が違和感なく、混じり合っている状態を見れば、やっぱりそこには国籍とかのダイバーシティっていうのを感じられると思います。

ドリス ケニアには色々な民族がいて、言葉もバラバラです。学校では自民族の言葉ではなく、英語とソエリ語2つの言語で話すことになっています。文化も全く違う子どもたちが集まって、母国語を使わずに、2つの言語を使いながらコミュニケーションをとる。それが、ダイバーシティのイメージでした。
聖学院大学には、ベトナム人、アメリカ人、マレーシア、ヨーロッパ系様々な人がいます。ボランティア活動に参加した時、いろんな国の人たちと、年齢とか性別に関係なく一人の人間として関わり合いながら活動しました。日本に来てからダイバーシティを感じたのはこういう活動に参加した時です。

八木 伊藤先生の中学・高校では、ダイバーシティを意識した教育はされてますか?

伊藤 学校としては様々な取り組みをしてますが、生徒や保護者を見ていると多様性より「〜じゃなきゃいけない」という意識が強い気がします。例えば自分は、高校3年生の授業を受け持ってます。受験勉強を教えていると、皆同じ道を歩めと言わんばかりに、最低限これだけ覚えなさいみたいなことになってしまう。入学したときはそうでもなかったのに。
保護者の皆さんに、実施している外部研修について説明するとすごく関心を持つのです。ということは自分の子に国際経験を積ませたいという焦りもあるんじゃないでしょうかね。語学力や異文化に対応する人間性を育てなきゃいけない。育てなければ、社会から弾かれてしまうといった焦燥感があるのではないかなって思います。

「~でなければならない」という目に見えない呪縛は確かに存在しますね

八木 日本では、こうでなければならないという、均質であることにものすごく縛りがキツイ。伊藤先生が仰っていたように高校3年になっちゃうと、結局偏差値の高い大学に入らなければって、そればかりになりますよね。

伊藤 そう、そこからはみ出すとすごく心細くなっちゃう。もう自分の将来がないと思ってる人がきっとたくさんいます。
僕は、タイの山岳少数民族の子どもたちと聖学院の生徒たちと仲良く一緒にボランティアをするという研修旅行を担当しています。
タイ研修旅行に行くと、自分を開け広げる自己開示というか、自分の気持ちを打ち明けることができるようになります。行く前と行った後では、だいぶ違います。タイに行くと、時間も緩くてちょっと大ざっぱです。ピックアップトラックの荷台にみんな乗って移動したりするような感じです。あの混沌の中に入って、それを通過するとちょっと気持ちが大らかになるんだと思います。

八木 山岳民族との異文化体験を積めば積むほど、いわゆる「良い大学」に進むのとは別の進路もありだよねってなりますよね。

伊藤 そうそう、そうですね。

八木 日本の社会ではこの道に行くのが正しい、そこから外れるとすごく大変という認識になっています。ダイバーシティ社会がわたしたちに問いかけてる課題として、複数の他の選択肢も色々ある、そっちに行く勇気を持たなければいけないんじゃないの、ということがあるかなと感じます。

選択肢がない方が楽だという意見はどう思いますか。

八木 価値観が多様化して困るというのは、考えることをサボってるからだと思います。対応するには、「自分はこれは良い、これは間違っていると思う」あるいは「私と関わらなければ、これはあってもいい、そういう人がいてもいい」など一つひとつの様々な価値観について、自分はどういうスタンスなのか、なぜそのスタンスであるべきだと思うのかを、考えて自分の意見を持たないといけない。それは習慣になっていないと面倒くさいですよね。
価値観の多様性を認めるということは、「そのすべてを無条件に平等に扱う」ということとは違います。それぞれの良し悪しについて、一つひとつ考えていかなければいけません。

ドリス ケニアでは、学校に通っている間、両親が子どもを一生懸命サポートします。でも15歳ぐらいまでに自分のやりたいことを決めなさいと言われます。勉強したいことが親の考えと違っていた場合、両親が言う方向に行ってしまうと、あまりうまくいきません。自分の好きなようにやりたいことを選択すればうまくいくと思います。

伊藤 日本人は、空気を読み合っています。その場では、どんな態度がふさわしいか、何がウケるか考えてしまいますが、タイで言葉の通じない人に接すると、空気なんか読めないじゃないですか。向こうの子どもたちはすごく元気で、讃美歌の伴奏がかかると、みんな大声で楽しそうに歌うんですよ。そうすると、うちの学校の子も、徐々につられて、大きな声で歌うようになるんです。そういう経験ができれば、一皮むけると思います。

ダイバーシティに対応するために教育はどういった貢献ができるのでしょうか?

伊藤 ここで話題にしている多様性は、互いの価値観の共通点を探していくところにあります。家庭や学校といった一つの価値観に閉じ込めてしまうと、そこから外れたくなったり、自分がそこじゃないなと思った時に寂しい。小さな頃から異なる価値観に触れる場面をつくってあげられるような教育が、これからもっと必要になるのかなって思います。
ドリス やはり自分と同じ文化の人だけではなく、他の文化に触れて、違う社会を学ぶ姿勢が大事で、そういったことを学ぶことから自分の考え方や生き方も変わると思います。自分も、日本に来るまで知らなかったことや日本で見つけたこと、今まで全く考えなかったことがいっぱいありました。そして精一杯学びました。
ケニアでは、小学校4年生(ケニアでは8年生)の頃から、ディベートでディスカッションして発表する教育のシステムがあります。日本でも子どもたちが自由に意見を言える社会を作らないと、大きくなってからそのことを学ぶのはすごく大変だと思います。だから小学校からディベート、グループディスカッションを取り入れて、大人になってから自分の言葉で意見を言えるような社会を作らないとダメかなと思っています。

八木 仮にダイバーシティ社会を多様な価値観が共存する社会だと定義するならば、それに対して自分はどういうスタンスを持つのかを考える力を養うのが多分大学教育の一番、肝の部分かと思います。
今、大学で我々がアクティブラーニングを推進しているのは、自分で考えるきっかけをつくる教育方法として有用だからです。でもアクティブラーニングに限らず、どんな方法でも良いと思います。伊藤先生みたいにタイに連れてっちゃうっていうのも良いかもしれないですし、ボランティアに連れてっちゃうっていうのもありかもしれません。読書をして今まで読んだことのない本を読めば、違う価値観に触れることになるし、それを通じて考える力を養うというのがダイバーシティ社会における教育の可能性です。
それは、別に全く新しいことではなくて、清水学長の言う「教養を大切にしなければいけない」ことにもつながると思うんですね。教養は幅広いものの考え方に関する学びだから、教養を大切にするということは、考える力を大切にするということだと思います。そういう意味で、原点に戻って大学における教養教育をもう一回再発見するところがあるのかなって思います。

伊藤 ネット上の発言とリアルな対面の場の発言とを使い分けなければならないような感じになっていて、それができないとすぐ炎上しますよね。ネットで書かれているコメントに差別的なことやひどいことがたくさん垂れ流されてるじゃないですか。面と向かっては言えないようなことでもネット上だと書き込みますよね。

八木 それは本当に大きな問題だと思います。リアルな人間のことを好きになったり、尊敬するところから相互理解が始まるのに、オンラインに流れてくる文字情報だけでは発言をしたところしか知りえない。多様な価値観を持っていたとしても、ネット上では「ここは通じ合えるよね」には至りにくいと思います。相互理解のためにはフェイス・トゥ・フェイスのつき合いが重要です。ネットでは一部分だけ切り取って「コイツ嫌い」とか「失礼な奴」となりがちですから。そういう状況から解毒、デトックスするためにも、多様な価値観のある海外とかに連れて行って、人々と交わるのはいいと思います。

伊藤 隣の国と政治的に仲が悪くなったとしても、その国に友達がいたら、そんなに否定しないはずですよ。

八木 そうですね。友達は友達だから。

ドリス そこから世界の平和にも広がると思うんです。友達が他の国にいれば、国自体が悪いイメージでも、友達がいるから安心して遊びに行ける。そこから平和が生まれるというのは、ダイバーシティでも大事なことです。

伊藤 そうですね。そっちに向かって行かないといけないんじゃないですかね。

八木 仰るとおりですね。その意味で、経営学の分野ではダイバーシティから、ダイバーシティ・アンド・インクルージョンという言い方に変わってきています。多様という意味のダイバーシティは、ディバイド(分ける)という言葉から来ています。それを突き詰めると、欧州の移民排斥や米国社会の分断のように、社会を分けるってことになってきます。そうではなくて、違いは違いとして認めた上で、インクルージョン、包括、包摂性が出てこなければいけない。そこまでいかないと、平和に繋がらない。違いを認めた上で一緒に友達だよね、っていうところになってくれば、平和に繋がっていけると思います。でも、それは言うほど簡単ではない。
ちなみに分けるって過程がないと、みんな同じ人間だ、みんな一緒だって言われちゃったら、ドリスさんや私の独自性が尊重されていないともとれます。そういう意味で、違いはやはり認めて欲しい。だけど「私たちはただ違うよね」と線を引かれたところで終わってしまったら平和に繋がらない。今は過渡期で、多様性を認めようというステップ。その先にインクルージョンがあるのかな、という感じがします。

 


 

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