聖学院教育会議 基調講演 (2000/10/23) |
「まず隗より始めよ――教育のゆくえ」 |
III.「まず隗より始めよ」――教育のよみがえり 1. 賢明な政治指導は、ドイツの場合二度の世界大戦によってようやく「世界史の大潮流」に従って指導的立場を確保したのに対し、一度の不幸な経験だけで、それを生かして日本を導くことではないでしょうか。ナチス的手法をまねて、日本を過去のナショナリズムに戻すことには、日本をふたたび孤立独善の国家へと逆戻りさせるだけで、それによって受ける国際的損失は大きいのではないでしょうか。教育は、過去に戻ってはならず、将来に向かって、古い教育の死からよみがえらなければならないのであります。教育のよみがえりは、人間の理解を深めやり直すことが要求されます。浅薄な人間理解をもって取り組むことはできないのであります。教育のよみがえりは、よみがえりの教育にならねばならないのであります。この関連で、二つのドグマの崩壊についてのべ、それとの関連においてこの講座のしめくくりをしたいと思います。 2. 第一は、近代社会一般にある問題ですが、ギリシャ以来のドグマ、つまり、知と徳の一致、平易に言えば、頭のよい人は道徳的に立派であるという仮説の崩壊であります。この仮説は、日本においては、最近まで相当な抑圧を生み出したものであります。しかし、最近は、社会の上層部を占めるエリートたちの間に道徳的腐敗が現れだし、それによってその仮説が崩壊したのであります。戦後教育は、教育基本法の精神から逸脱して偏差値受験教育になりました。そしてそれにもっとも適合する部分が政官財の上層部に登って行きました。そこに国民の利益よりも自己利益を優先させるという倫理的腐敗が現れたのであります。それが日本の戦後教育の失敗の証拠であります。 3. 第二は、もっと深刻な問題であります。戦争中特攻隊は、若い命を国家のためにささげました。個人の人生の意味が共同体への献身において完成されるというドグマが、敗戦と戦後政治によって破壊されたのであります。日本人のたましいの問題は、個人の人生の意味は、国家への忠誠によって成就できないという悲惨にして深刻な経験から出ているのであります。新約聖書は「ひとが全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と教えましたが、その教えを日本人は、聖書を知ることなしに、体験的に理解しているのであります。日本人は魂に深い傷を受けたのであります。 4. だから、日本の戦後教育の問題は、過去に戻って解決できるようなものではないのです。現代の人間は、共産主義的全体主義、ヒトラーの全体主義、そして日本の全体主義にも、人生をささげることができなくなっている、いや、不幸にもすべての共同体にも、そこで人生の意味の成就があると思えなくなっているのであります。しかし、傷を受けたたましいは癒しを求めます。その課題と教育は取り組まねばならないのであります。森首相は靖国参拝の推進者でした。ところが、首相になって対外的な配慮からとして参拝をしない、わたしは参拝せよというのではないが、そういうのは不真実だと思うのです。こういう政治家のふるまいに、その傷はくりかえし疼くのであります。日本人はもう国家のために命をささげることができなくさせられているのです。それだけでなく、これを外国から見れば、森首相の言動は、建前と本音の二枚舌と映るのではないでしょうか。だから「個人」は日本でこそ病的なまでに自己主張をしながら癒しを求めるのではないでしょうか。これが日本人の心の問題なのであります。そしてそこに潜む癒しの願いのゆえ、日本でこそ教育問題は、深い哲学的、宗教的な次元に達するのであります。 5. 「まず隗より始めよ」。辞書はこう説明しています。賢者を招くためには、まずさほどでもない自分のようなものを優遇せよ。そうすれば、賢者は次々とあつまってくる。遠大なことをなすときは、まず卑近なことから始めよ。転じて、事を起こすにはまず自分自身から着手せよ」。「聖学院教育会議」の目指す新しい日本の形成のための教育革命は、こういう思想をもって、こういう仕方で、「下」 から起こるべきであるということ提示するのであります。それは、永田町からでも霞が関からでもなく、都の東北の丘の上(駒込キャンパス)で、大宮郊外の川のほとり(大宮キャンパス)で、いやキャンパスにおける教育の原関係、教師と生徒、教師と学生の原関係から、いや、たとい相手がだめだとしても、教育者自身から始まらねばならないのであります。 6. 国家観におけるコペルニクス的転回が要求する教育革命は、まず教育者(職員も含めて)の内なるコペルニクス的転回から始めなければならないのであります。「事を起こすにはまず自分自身から着手せよ」。それは、教育者自身の革命であります。アメリカで最近広まりだした「サーヴァント・リーダーシップ」(servant leadership)という言葉があります。奉仕者としてのリーダーシップであります。たしかに教育者は「リーダー」でなければならない、しかし、それは、一将功なって万骨枯る、であってはならない、リーダーはサーヴァントでなければならないのであります。教育を政治に利用してはならない、むしろ政治が教育に奉仕するのでなければならないのであります。それは、リーダーシップを否定しない、しかし、その態度を180度変えなければならないのです。これはしかし、キリスト教学校には始めからあったことではないでしょうか。われわれは、この教育会議において、聖学院のスクール・モットー「神を仰ぎ人に仕う」を新しく生きようとするのであります。 7. 「隗より始めよ」―まず教育がよみがえらなければならない、そしてよみがえりの教育とならねばならないのであります。新しい世紀の日本の教育は、単なる能力開発ではなく、よみがえりの教育でなければならないのであります。ラテン語の‘educere’は、よく言われた潜在的な能力を引き出すというのではなく、将が兵をひきいて進発するという、強力な含蓄があります。 8. Student Volunteer Movementという運動が100年前のアメリカに起こりました。それは世界宣教運動でした。そのそのヴィジョンは、“the evangelization of the whole world in this generation”この世代に全世界に福音をのべ伝えるというものでした。その運動から聖学院が生まれました。この会議も聖学院のヴォランティア・ムーヴメントであります。ヴォランティアということは、ラテン語の意志(voluntas)からきた言葉です。政府から言われてするのではない、自発的にする、ここに意志のよみがえりが始まる、ここに新しいミレニアムに向かってSeigakuin Volunteer Movementが始まる、それがわれわれの「まず隗より始めよ」ということでありたいと思うのであります。
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