誰のための教育か−1−

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弁護士・さわやか福祉財団理事長   堀田 力

 [プロフィール] 

子どものための教育とは何か

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 今日の講演は「誰のための教育か」と失礼な演題であります。生徒のため、学生のために決まっているではないかと直ちに答えは出てくるわけですが、どうしてこのような演題を付けたかと言いますと、建前は生徒、学生、児童のためとなっているけれども、本当に彼らのための教育になっているのだろうか、実は、父兄のための教育になっているのではないかということです。子どもたちの心を思うことなく、親や社会の要望に従っていないでしょうか。例えば、偏差値を基準に社会的判断で「いい」と言われている大学にたくさん入れる高校が「いい」高校で、「いい」高校に入れる中学が「いい」中学であるというような社会の基準を守って、子どもたちを虐げる教育をしていないでしょうか。本当に子どものため、そして子どもの人間性を伸ばすための教育というのはどういうことなのでしょうか。その原点にかかわるような事例を一つ紹介させていただきます。

自分の肯定
 生まれた時から体が不自由で、車いすがなければ行動できない重度障害を持った新潟の少女の話です。自分の姿が健常なほかの子どもたちと違うことで彼女の心は深く傷つきました。まず親が「養護学校へ行きましょう。」と言いました。ところが、「こんな体で外へ出たら、どんな目で見られるか。そのわたしに人の目に射すくめられるつらい思いをさせるのか。絶対にわたしは学校へ行かない。」と親が何を言っても聞きませんでした。

 中学生に相当する年になりました。体は成長しますので親だけで世話が出来なくなって40代の女性の方がボランティアとしてお手伝いに来たんです。しかし、これまた言うことを聞かなかったのですが、ある時ボランティアさんがふとした思いつきで絵を描く道具を渡しました。そうしたら、形が実に大胆で、色も鮮やかな素晴らしい絵を描いたのです。ボランティアさんは「あなたすごい絵が描けるじゃない」と心から感嘆しました。それまで「こんな体に産んでゴメンね」とか「つらいよね」とか同情の言葉は、親や周りの人にいっぱいかけられていましたが、これは、彼女が生まれて初めて人からほめてもらった言葉だったのです。これがうれしかったのです。

 彼女は絵を描くのが大好きになって、次々に描きました。その絵がまた素晴らしい絵でした。それでボランティアさんは「こんなに素晴らしい絵が描けるんだから、先生に付けたらどうだろう」と思い、「行ってみる?」と聞いたら「行く」と言うんです。それまでは絶対に人から見られるのは嫌だと言っていたのに「絵がもっと上手になりたいから行く」と言うのです。ボランティアさんも車いすに付き添って行き、一緒に絵を習いだした。そしたら、少女の方はどんどん絵が上達し、さらに素晴らしい絵が描けるようになりました。ボランティアさんは描いてもありふれた絵ばかりで進歩がありません。先生から「あなたはどんどん進歩するね」とほめられます。これがまたうれしいです。健常な人、しかも大の大人で40過ぎている人が、先生からあまりほめてもらえないのに、自分はほめてもらえるということが、自信につながっていきました。

 ボランティアさんは「こんなに熱中してるんだからこの絵をみんなに見せたい」と、大きな郵便局と交渉して壁にこの絵を張りだしてもらいました。描いた彼女は車いすで来て端の方で見ていました。すると郵便局に来た人が、ハッという感じで立ち止まって彼女の絵をしげしげと見て行きます。あるいは、「誰が描いたんだろう。素晴らしいね」という言葉が聞こえてきます。そこに描いた本人がいますが誰も知らないのです。知らないなかで心からほめてもらえるのは、うれしいことでした。ですから、少女は「もっと頑張りたい」とさらに一生懸命絵を描くようになったし、親の言うことを聞くようになりました。
 
 絵を始めるまでは人への恨み、非難だけだったのが、「絵を描いてこんなに楽しい、人が認めてくれる。わたしの人生は素晴らしい。わたしに絵の才能を授けてくれた親がありがたい。」となりました。そしてリハビリも進んでやるようになりました。そして、「『あの絵はどんな人が描いたんだろう』と思って、誰かがわたしを訪ねてきたとき、世の中のことを何も知らないのでは恥ずかしい。」と自分から「学校へ行く」と言い出しました。ずっと学校へ行っていないわけですから、勉強はずいぶん遅れていましたが、やる気がありますから、あっという間に吸収して、みんなと同じレベルに追いつくのにそれほど時間はかかりませんでした。

 彼女が絵と遭遇していなければ本当に暗い人生だったんでしょうが、それがガラッと変わってしまいました。この力は何なのでしょうか。要するに「自分の肯定」です。自分がこういう能力を持っており、人がそれを認めてくれるという自分の存在意義を確認したのです。わたしはこれを「自己存在の肯定」、「自己存在の確認」という言い方をいたしております。人間教育、人格教育と言いますけれども、本人が自分を否定していれば、人から認められるような、あるいは神から認められるような人間になりたいと思うはずがないです。「自分は生きていてよかった、生きている価値がある」と思うからこそ、頑張って人格も鍛えようと思うし、自発的にいろんなことを学ぼうとします。その一番基本のところが、日本の教育で足りないのではないでしょうか。日本の教育の有り様を見てそういうことを痛感いたします。

 

 

[プロフィール] 堀田 力(ほったつとむ)氏
1934年京都府生まれ。京都大学法学部卒業後、検事に。
在米日本大使館一等書記官、東京地検特捜部副部長、法務大臣官房人事課長、最高検検事、法務大臣官房長などを歴任後91年に退職。
さわやか法律事務所及びさわやか福祉推進センター(現さわやか福祉財団)を設立。
主な著書に「壁を破って進め−私記ロッキード事件」「これから人は何のために生きる」など。


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