アカウンタビリティについて -2-

「アカウンタビリティについて」
―日本経済新聞「交遊抄」に寄せられた質問に答えて―


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 聖書の言うアカウンタビリティ

 リスポンシビリティとアカウンタビリティの(「言葉」というよりは)「事態」は、旧約聖書の冒頭の創世記第1章から第三章までのアダムとエバの物語に出てまいります。そこにリスポンシビリティとアカウンタビリティの原型を見ることができます。そこには、神と人間の人格的関係と、それとの関連で、エデンの園のガーデナーとしての委託を与えられることが出てまいります。罪への堕落は、この人格関係と委託関係の中で、その違反として起こるのであります。もちろんそこには、今日のリスポンシビリティとかアカウンタビリティとかの「言葉」は出てまいりません。しかし、その言葉が捉えるような「事態」はそこにあるのであります。

「言葉」としては、新約聖書に出てまいります。今日アカウンタビリティは「説明責任」と訳されていますが、新約聖書のペテロの第一の手紙3章15節には「ただ、こころの中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたの内にある臨みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」という言葉があります。

 この「説明」という言葉は、今日のアカウンタビリティに通じてくる言葉であります。同じ4章5節には「彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない」という言葉があります。この「申し開き」は、「説明」という言葉と原語ギリシャ語では同一の言葉です。これは興味深いことですが、ギリシャ語の「ロゴス」という言葉です。

 この言葉が「説明責任」の意味に用いられてくるよく知られた箇所としては「タラントの譬え」(マタイ福音書25章14節以下)のところです。それは人々に五タラント、二タラント、一タラントを預けるのですが、一タラントという一番少ないお金を受けた者はそれを地に埋めてかくして置いたというのであります。そこにはその違いについての「解釈」があるからです。与え主は神を表しています。神理解にもとづいて、その一タラントを地中にかくしてなくさないようにするというのであります。それに対して説明する責任が問われます。

 リスポンシビリティは、応答という人格性、主体性の在り方で、その人格関係は、ダイアローグ、ダイアロジカルな思惟を惹き起こします。神との関係で言えば、祈りの中に出てくるような上なる神と下にいる人間との垂直次元の人格関係であります。それはバルトの神学によく出てくる神と人間との関係であります。しかし、アカウンタビリティにおいては、たしかに我と汝関係を基礎としておりますが、そこには、応答する主体だけでなく、その応答の中に委託された事とか物とかに対する責任として、社会性を帯びてまいります。その主体は、その委託において「エイジェント」となります。つまり、そこには、「我と汝」関係の中に、「我とそれ」関係の「それ」の要素が入り込むのであります。「それ」、つまり第三人称的なものが、その我と汝の人格関係に入るのであり、そこに「委託関係」が加わるのであります。こうしてわれわれは、リチャード・ニーバーの四つの要素を二つに大別してリスポンシビリティとアカウンタビリティの二つの概念に分け、そしてその意味を明らかにするのがよいと考えるのであります。リスポンシビリティにおいては人格関係が強調され、アカウンタビリティにおいては社会関係の広がりをもつということができます。その中に第三人称的要素を取り入れることによって、人格的リスポンシビリティは社会的広がりをもつことになるのであります。リスポンシビリティとアカウンタビリティとを区別することから出てくる人間主体性の違いを指摘しておきたいと思います。前者においては、人間主体は実存的、後者においては、人間主体は社会的、英語で言えば、前者はsubjectであり、後者は agentという性格であります。或いは steward, stewardessの性格をもつということもできます。


 「悪い家令」のたとえと「アカウンタビリティ」の問題


 ルカ福音書16章に出てくる悪い家令の話しは、実に奇妙な譬えですが、この譬えではっきりしていることは、ここにアカウンタビリティの問題が典型的な明白さをもって出てくることであります。家令、ギリシャ語では「オイコノモス」、これは現代のエコノミーの語源オイコノミヤと同源の言葉でありますが、主人から預かった財産をどう管理するか、という問題であります。オイコノモスは、英語聖書欽定訳では「スチュワード」、現代訳では「マネジャー」となっております。その財産は彼のものではありません。委託されたものであります。ところがこの家令は使い込みをしてしまう、そして主人から「会計報告書」を出すことを求められのであります。「会計報告書」は、欽定訳では“an account of thy stewardship”となっております。この譬えは終末論的ないわゆる最後の審判に関連したものであります。(伝道の書11:9,10、ロマ書14:12、コリント第二5:10、ペテロ第二4:5を参照)。ギリシャ語では「ロゴス」、つまり上にのべた「説明」とか「申し開き」と同じ言葉なのであります。それがアカウンタビリティであります。それはオイコノモスの責任であります。

 ここで、アカウンタビリティが問われている状況へと視野を拡げなければなりません。この譬えは、第一に、委託関係を前提とすることであります。財産の所有者は家令(つまり人間)ではなく、主人(つまり神)であって、神の委託であることを示していることであります。そこには神が万物の創造者であり所有者であるという基本的認識が前提されております。第二には、これが最後の審判の状況を指し示しているということであります。つまり、終末論的状況の想定であります。そこで人間は人生の決算報告をしなければならないという状況であります。

 ここでは、後者のみを考察してみたいと思います。アカウンタビリティとは、上に引用したペテロの手紙の言葉「彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない」ということであります。この終末論的審判が、もちろん神なしには成立しませんが、しかし、その時までに時間つまり歴史が介在するという状況を見ているのであって、その歴史の中では悪い家令のような悪事をする可能性があるということを示すのであります。しかし、そのまま行くのではない、最後の審判があるということ、たとい歴史の相対性の鬱蒼たる森の中で人事・悪事がなされるとしても、歴史には最後の審判があって、だれも逃げ果せることができない、最後にその裁きの座で「申し開き」をせねばならないということであります。そこにモラル・ハザードを許さない抑えがあるのであります。それは、理性的自律で人間は倫理性を保ち得ない弱さというか、罪の深さというか、そういう人間理解があるからであります。そしてその審判は、歴史の中で人間が行なってきたすべてのことに及ぶのであります。そこでアカウンタビリティが問題となるのであります。そこで歴史と倫理との結び付きがあるのであります。アカウンタビリティは、最後の審判という終末論的思想と深く関連しているのであります。

 日本では、この神が存在しない、或いは存在しないと考えられている、だから逃げ隠れができると思うのではないでしょうか。ところが聖書は、髪の毛一本一本まで数えるような神が見ておられるということを記しております。最近の高級官僚の倫理性の欠如は、深く神の問題にまで帰着するのではないでしょうか。最後の審判とは、最後にそれがあるということで、最後以前にはそれがないように見えることがあることを認めております。しかし、最後にはまさに最後の審判がある、そのことが歴史相対主義の中に倫理を持ち込むのであります。

 事実、歴史の中でもいろいろな法廷があり、審判があります。それは神の最後の審判の予感を示し、また最後の審判の先取りを意味するのであります。しかし、この最後つまり終末ということは、グローバリゼーションによって、今や人類の意識の前方に現実性を帯びて予感されて参ります。上にものべたように、グローバリゼーションとはグローブ(地球)がグローバライズするということで、球形は圧延機にかけられたように、歴史化するのであります。地球が円形(球形)ではなく、始めと終わりがある直線になって行くということであります。そのことを「歴史化」と呼ぶならば、現代の歴史化は、聖書の創造と終末という世界観と合うようになり、そして聖書の考え方や教訓などが、今日の状況に妥当性をもつようになるのであります。こうして、現代のキリスト教教育の関わりがあり、そしてその必要性が感じられるようになるのであります。その中で人間の生き方が変わる、それが自己責任とかアカウンタビリティとか求められる理由なのであります。あの悪い家令のように、エコノミーを混乱に陥れるような罪がはびこるからであります。  (2002/3/5) 

(「V.「21世紀の大学の課題」は省略)

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