先生のことば 「サインズ オブ ザ タイムズ」掲載 (2003年4月号)

聖学院みどり幼稚園 先生のことば
 「サインズ オブ ザ タイムズ」掲載 (2003年4月号)

 
補助なし自転車に乗れた

聖学院みどり幼稚園 園長 鈴木健一

 人は身体を持った存在です。人は生きるために、社会に共有されている技術を、身体に刻み込みます。現代社会は、その技術が高度に発達し、生活の隅々に行き渡っています。あまりに高度すぎて見通すことは極めて困難です。しかし、三歳から六歳の園児たちの姿を見ていると、科学技術の原点についてしばしば考えさせられます。

自転車に乗れた時
 五月のことですが、活発な四歳の女の子が、毎朝真っ先に外へ出ていって補助なし自転車に挑戦し、一週間で乗れるようになりました。仲の良い五歳の女の子がじっとその姿を眺めていましたが、次の日から挑戦を始め、二日で乗りこなせるようになったのです。一人の子どもにとって、自転車を補助なしで乗れるようになるのは、ものすごくうれしいことです。少々大袈裟に言えば、その子の人生で画期的な出来事です。私自身小学校四年生の頃、初めて補助なし自転車をこいで五メートルほど進んだ時の感激の瞬間を、六十三歳の今でもありありと思い出します。
 手足の骨が強くなり、筋肉に力がつき、バランス感覚が発達してこなければ乗れません。そして、一度乗れるようになると、身体が記憶して一生忘れません。しかし、乗れるようになったということは、それ以上です。その子は、自分の身体に強い自信を持つとともに、自分を誇りに思うようになり、アイデンティティーの確立を助けます。

技術が伝わる
 さて、この出来事を見て、高崎山のニホンザルの話を思い出しました。一匹のサルが海水でイモを洗って食べて美味しいのを発見したところ、他のサルも次々真似して伝わっていき、群れ全体に広がったそうです。技術の伝播の原点のような光景です。
でも、自転車の例で考えますと、伝播はさらに複雑です。
 年上の五歳の子は、四歳の子に負けたくないと思ったのです。確かに技術の習得の基本は模倣です。目の前で誰かが乗っているのを一度も見たことがないとしたら、自転車のような代物に乗るのはかなり困難です。しかし、真似をするにしても困難に挑戟するには、五歳の子のように対抗意識を持つといった、さらなる強力な動機が必要です。身体で覚える個人的な技術も、実は、他者との緊張関係の中で起こるものなのであります。

技術が途絶える

 筆者は現在、技術史教育学会というところに所属して、このようなことを考え続けているのですが、ここで、技術の伝播にからむ現代的な問題を思い出します。最近聞くのですが、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ (金門橋)を大改修したり、ドーバー海峡の下にユーロトンネルを掘りぬくような技術は、現在日本にしかないそうです。昔はアメリカにもあったのですが、その技術が途絶えてしまったのです。そして、一度高度な技術が途絶えると、設計図があり説明書があっても、蘇らせることは極めて困難だといわれます。
 我が国でも、東京の下町の小さな町工場の主が、計測器でも計れない百分の一ミリを感じる指を使うような世界的な技術を持っていますが、今それが急速に失われつつあります。伝播を支える緊張感がなくなる問題です。それは、どのように起こるのでしょうか。

共同体の中での物語

 補助なし自転車の出来事が起こったのは、二人の子を取り巻く環境や仲間たちがあってのことなのです。三歳児のクラスの先生の次のようなレポートがありました。

園庭には、自転車や三輪車が用意されており、正門から玄関に続く石畳の上を何度も往復して乗っています。年少の子どもたちは三輪車がほとんどですが、ペダルでこぐと言うよりも、自分の足で地面を蹴って進みます。自転車に乗っている年中・年長児のまねをして乗ろうとしても、バランスを崩し自転車ごと倒れてしまいます。自分では出来るつもりなのですが、思い通りにならないで不思議そうな顔をします。

 これはもう、何人かの個々の子どもの物語ではなく、多数の子が共に生活する、施設の整った幼稚園という、共同体の中で起こっている物語です。
技術が生きるには、技術を身につけた仲間たちと彼らを取り巻く共同体の存在が欠かせません。アメリカにおいてトンネルの掘削の技術が途絶えてしまったのは、その技術を身につけようと強く望む若者がいなくなっただけでなく、そのような緊張感を作り出す共同体がなくなったことを意味するのではないでしょうか。

 園長室で子どもたちの歓声を聞きながら、そんなことを思うのです。

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