先生のことば(2002年7月10日)

聖学院みどり幼稚園 先生のことば 2002年7月10日 母の会:園長教育講和

「身のまわりの始末」と「自立」

 「身のまわりの始末を自分でする」という目標は、「よく遊ぶ」「他者のために働く」そして「よく祈る」という目標とともに、みどり幼稚園の保育の大切な柱です。

登園時に年少のクラスを見ていますと、この事は大変なテーマであることが分かります。朝子どもたちは、教室に入っても、きまった場所まで連れて行ってもらわなければ、まともに着替えられません。リュックサックを置くことも出来ません。リュックを背負ったまま、パズルに夢中になります。1回1回言葉をかけられ、手をつないで連れていかれても、今度は立ったまま先生が脱がせて着せてくれるのを待っています。

この前、見ていましたら、水遊びで前の方をびしょびしょに濡らした女の子が先生から「さあ、脱いで着替えよう」と言われたら、さっと両手を挙げたまま待っていました。きっと家ではお母さんがそうして上げているのでしょう。でも先生は、脱がせて上げながら、その子の片方の手を添えさせ、「さあ、自分で脱いでみよう」と一緒にやっている感じにしました。自分一人で出来るようになる状態に一歩でも近づかせるやり方であります。

衣類を脱ぐにも、ボタンを外すにも、指や手そして身のくねらせ方まで、身体全体の技術の習得が必要なのです。しかし、人の教育にはさらに「言葉」、それも愛情に富んだ言葉が必要であります。

毎日の朝のセレモニーを何度も繰り返す内に、部屋に入って途中で遊び始めても、先生の言葉だけで遊びをストップし、身の始末が出来るようになります。そして遂には、年中組の子どもたちのように、教室に入れば何も言われなくても、先ず自分で身の始末が出来るようになるわけです。

こうなった状態とは、先生の「言葉」すなわち園の規則が、その子の内面に入り、自分の言葉となり、自分自身を律する掟になった状態といえましょう。ですから、幼稚園の園児の段階で、「身のまわりの始末をひとりでする」とは、中学生や高校生に言う場合とは違って、他人に迷惑をかけないといった消極的なことではなく、身体と心の自律に関わる、人として必ず身につけなければならないことなのであります。

 

聖学院小学校にいた頃のことですが、1年生の「なかよしキャンプ」に参加した時の事です。軽井沢の聖学院セミナーハウスにおいて、2泊3日で開かれます。最終日、最後の荷づくりの時です。着たものその他を、全部自分でリュックに詰めなければなりません。各自の「身のまわり始末」の能力が歴然と現れました。女の子たちはさっと済ませて、歌を歌っています。男の子は溢れてしまって、何時までも詰まりません。男の子の中に、1人2人リックサックはきちんとして、ぼんやりしている子があります。彼は、3日間着た切りで1回もリックを開けなかったのです。どうも、我が国の家庭では、男の子と女の子との「身の始末」の指導が違うのだと思わざるを得ません。男の子と女の子との育てかたは、私も違うのではないかと思っている一人ですが、「身の始末をひとりでする」ことに区別はいらないのではないでしょうか。

 

このような「身の始末」という面での成長は、その子自身の自立に深く関係してきます。かなり以前のことですが、大変極端な事例に触れました。

横浜にある教護院「横浜家庭学園」を訪問したことがあります。キリスト教系の女の子だけの教護院です。少年院に収容される子どもほどではありませんが、飲酒喫煙はおろか、家出や性非行に走り、暴力団に食い物にされていた子もいます。

しかし、話を聞いてショックだったのは、おそろしいほど彼女らの生活習慣が欠けていることでした。例えば、

 箸の持ち方を知らない子がほとんどで、きちんと持てる子は100人に1人である。
 歯ブラシの使い方を知らない。顔の洗いかたが分からない。
 入浴の時、からだを流さないまま、湯船にドボンと入る。

などなどです。

 12歳から18歳の女の子としての基本的な生活習慣が、信じられないほどすっぽり欠けています。家庭学園の先生方はここから教育を始めなければなりません。そうでないと彼女たちは、自分のからだと心を、自分でコントロールすることが、何時までも出来ないからです。

 

以上のような事を考えつつ、子どもたちの自立の基盤である、身体全体の動き、手や足や指の滑らかな動作を、「適切な言葉」とともに身につけさせようと、「身のまわり始末をひとりでする」という目標に取り組んでいきたいと願っています。

(園長  鈴木健一)

先生のことばに戻る