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2006年12月21日

小学校PTAクリスマス礼拝 心に受けた「クリスマスの恵み」


 12月12日(火)10時~12時 聖学院小学校講堂で、PTAクリスマス礼拝を持ちました。校内は、PTA宗教部の方々と6年生児童の手による、素敵なクリスマスの飾りがいっぱいでした。このプログラムのために、宗教部部長さん、副部長さんを中心に、何度も打ち合わせと、祈りの会をもってくださったこと、感謝しています。神様はその労に報いて、恵みに満ちた素晴らしい礼拝にしてくださいました。幼小保護者218名が、熱心にお話を伺い、恵みを心いっぱいいただいて家路につきました。
 
今年、奨励をしてくださったのは、聖学院大学学長であり、牧師でもあられます阿久戸光晴先生でした。かつて、ご自分が大阪で出会った小学校4年生の少女の例もあげ、とても分かりやすいお話をしてくださいました。ありがとうございました。(奨励の内容は「続きを読む」から読むことができます)
また、キャンドルを手に、入場時と特別讃美をしてくださったコールシャロンの皆様、天使の音色といわれる、ハンドベル演奏をしてくださったGクレフの方々に感謝申し上げます。

「やみ夜に響く新しい讃美の歌」

   イザヤ書11章1~9節
   ヨハネ福音書1章1~5節
   マタイ福音書2章1~12節
   ルカ福音書2章1~20節
   讃美歌II 87,118,114


1.現代日本社会をおおういじめ問題のやみ
 私が今日こうして教育・伝道のわざに導かれる前に、ある会社で勤めておりました。その勤務地の関係により、大阪のある教会で私は教会学校の教師のご奉仕をしておりましたが、ひとりの少女との小さな、しかし大きな出会いがありました。その少女は動作が少し緩慢でした。一つのことに取り組むと、何度もやり直し、結局何をやってもタイムアウトということになります。でも聖書のお話にはとても目を輝かせて集中して聴くのです。彼女は動作のことなどで学校ではいじめられておりました。教会学校でも仲間と歩調が会わず、いつもひとりでした。ある時私は、全員によって書かれた聖書カードを壁に貼り出したとき、私は目を疑いました。何度も書き直しやっと書き上げたその子の字が、消しゴムのカスだらけの中で生き物のように浮き出ていました。私はこの子の動作の意味が分かりました。緩慢に見える動作は、この子にとって心への焼付けプロセスなのです。この子のお母様によれば、3歳の時の交通事故により頭を強く打ちつけ、この子はだめになってしまったというのです。そうではないことを何とかお母さんに分かってもらう努力が、私にとって必要となりました。短所に見えるところは実は秘められた長所なのです。私は時間との関係で、仕事を適宜流しておりました。それが現代のスピード感覚なのです。しかしこの子は時間を超越し、本当に「分かる」ための丁寧な歩みをしております。私はわが身に照らし反省させられました。この子のように真心こめた丁寧な仕事をして行こうと。あの事故で確かに個性は変わったかもしれませんが、はるかに立派な個性が密かに神によって備えられていたことを思います。それにしても、ご家族の理解、学校や教師の理解、そしてクラスの周りの理解が大切です。今日のいじめ問題克服の鍵があると思われるのです。
 ところで本日の旧約聖書に「おおかみは小羊と共にやどり・・・」という御言葉があります。現在、日本では陰湿ないじめ問題が起きております。正におおかみが小羊に襲いかかり、ひょうが子やぎに食いつき、という状況であります。正に現代日本社会をいくつかの大きなやみがおおっております。ところで私は、この御言葉を読む度に、アメリカの黒人(アフリカン・アメリカン)のマルティン・ルーサー・キング牧師が(ご承知のとおりアフリカン・アメリカンの人々の差別撤廃と公民権保障のため、整然たる非暴力による運動を指導し、また力強い説教や講演活動を通じて、ノーベル平和賞を受け、その後心無い白人により暗殺されました)、‘I have a dream’「私には夢がある、子どもたちが肌の色、民族の違い、性格の違いを乗り越えて、ともに手をつなぎ、同じテーブルの上で食事をともにする時が必ず来る」、と言われたことを想い起こします。差別とはいじめの最たるものであります。バスの席にも隔離する、仲間に入れてあげない、などでありますが、それは正に現在の日本社会で同じことが起きていると言って良いのではないでしょうか。キング牧師は言います。差別する白人の子の心の将来を心配する、差別させて放置してよいのか、彼らのために祈ろう。また差別されるアフリカンの我々の子の将来を心配する、差別され、卑屈にさせることにならないか、彼らのために行動しよう。しかし差別は我々のうちにないのか。訴えかけよう、非暴力による訴えをしていこう、胸を張って、と。
 ところでこの御言葉は続きます。「小さいわらべに導かれ」と。おおかみと小羊が仲良くともに伏す時が来ると言われているのです。

2.クリスマスの沈黙
ところで、聖書はクリスマスについて何を説明しているでしょうか。お読みいただいた福音書のクリスマスの記事を注意して読むならば、本当に不思議なことに、クリスマスの出来事の意味の説明について、聖書は沈黙しております。マタイもルカも事実を淡々と報告しているだけであって、一切解説めいた説明を入れておりません。
 闇の中で星だけが輝き、東方から来た学者たちを導き、ひとりの幼な子と出会わせ宝をささげさせ、学者たちは帰っていく。星と学者たち以外は、一切語っていない。これがマタイの語り口です。一方、天上の世界と地上の世界とがあって、天と地は、悲惨と苦悩、罪と死の暗闇によって分かたれている。地上はどこまでも深い闇の中にある。突然、天の扉が開いて、天上の輝きが一瞬地上を照らす。しかしすぐにその扉は閉じられ、再び暗闇に戻る。地上の世界は以前と比べて何も変っていないかのように見える。しかしもはや全く同じではない。そこにひとりの幼な子が生まれていた。これがルカの語り口です。実に不思議な語り口です。いずれも信仰によって読まなければ何も見えてこないような語り口です。マタイはあたかも本当のクリスマスはあの星だけが祝っていた、またルカは本当のクリスマスは地上ではなく天上においてだけで祝われたと、言わんとするかのようです。たしかに、約2千年前の昨晩、クリスマスの出来事の意味を本当に理解し、そして事の重大さにどよめき、神のなさる御わざを讃め頌えずにいられなかったのは、輝く星のもと御使いたちと天の軍勢であって、地上の人間ではありませんでした。
クリスマスが起こったあの日の夜、地上は深い闇に包まれていました。闇は何も語りません。質問への応えを拒否する世界、それが闇です。ベツレヘムの野原も真っ暗でした。羊たちは身を寄せ合ってうずくまり、羊飼いたちも衣服を何度もきつく引き締めて目を伏目がちにしつつ、楽しそうな会話もなく、闇の中で辛い役目に耐えていたことでしょう。そして小さな村ベツレヘムの片隅の馬小屋には、疲れきったヨセフとマリヤがいました。これはまさに地上の姿そのものです。彼らは為政者の人口調査のための強制命令による旅路の途中にありました。命じられた住民登録の旅は原籍地の役場に行かねばならず、しかも自費負担であり、貧しい者には過酷なまでに耐え難いものでありました。正にここには疲れきっている人々がそこにいました。ましてや身重の女性にとっては。
ヨセフとマリヤはとにかくベツレヘムにつき、マリヤは月満ちて初児を産み、布にくるんで飼い葉おけの中に寝かせたのでした。宿屋には彼らが泊まれる場所がなかったと記されております。神の子の家族がいくら宿屋の扉をノックしても、受け入れてもらえません。彼らは冷たい人の心の闇に直面しました。これは神の子の訪れに心の扉を開こうとしない私たち人間の罪の光景が映し出されております。ようやく彼らはある宿の片隅の馬小屋で、休みを取り、幼な子を飼い葉おけの中に寝かせました。
 その場所からほど近いまき場で、冬至という最も夜の長い深更、地上は深い暗黒に支配され、羊飼いたちは寒さの中で沈黙していました。ところがそこで突然、天が開け、主の栄光が地上を照らしたのです。真っ暗な地上がほんの一瞬、まばゆい光の輝きによって照らし出されました。この天上からの輝きの中で、羊飼いたちに声が聞こえます。
 
3.羊飼いが見たもの
 羊飼いというのは、いわゆる遊牧民であり、定住する土地を持っていませんでした。定住者からは、怪しまれたり、軽蔑されておりました。羊飼いたちは、格差社会において見捨てられた人々、さびしい人々、心に大きな闇を持つ人々の代表者たちでもあります。富める人、賢い人、多くの仲間がいる人たちが、幼な子に泊まる場所を与えるのを拒否した一方、馬小屋に住むような人々のもとへ、神の子の御誕生が告げられます。
 羊飼いらは光に打たれ、その輝きが一体何か分からず、恐れ、おののきました。しかし天からの声は「恐れるな」でした。神を畏れる人々に、神は「恐れるな」と言ってくださいます。そして御使いたちは「見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」と言われました。何百年も前のイザヤの時代より預言されていた救い主のお誕生です。しかしどうやって神の子のお誕生と分かるのでしょうか。天使は言います。「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」と。しるしは、「幼な子が布にくるまって」いること、そして「飼葉おけに寝かしてある」ことでした。
「布にくるまって」とは、オムツをしてというのが本来の意味です。すなわちそのお姿は、普通の赤子とまったく同じであられたということであります。しかしこの子は成長し、神と人から愛され、多くの人々を癒し導き、やがて十字架にかかられ、そこからおろされた後の主イエス・キリストのお姿も亜麻布に「くるまれていた」(ルカ23:53)のでした。そこには、お生まれになる時から、十字架にかかられるまで、神に従順でご自身をささげきられたお姿であります。そのお姿を、羊飼いらは前もって見たのでした。
また「飼葉おけの中に」眠る幼な子でした。それは、3度も繰り返して証言されています。聖書が3度記述するときは、特に重要な意味が込められております。飼葉おけの中のまったく見栄えのしない、賎しいお姿の幼な子、それはやがてゴルゴタの丘の十字架につけられて死ぬ救い主のお姿であり、まだだれも葬ったことのない岩を掘って造った墓に納められるお姿を、予兆するものであります。しかも「寝かされて」おりました。それはすべてを神にゆだねきっている姿であり、正に主イエスのお姿であります。
 羊飼いたち、この世において失われていた者らは、これらの光景を目撃しました。その奥にある意味、救い主がどのような方であるかを不思議な仕方で感じ始めておりました。
 自分を少しも義人と思わず、罪の束縛に苦しむ人々、彼らは正に、クリスマスの夜に、聖霊の啓示を受けて、神の子、救い主がどのような方かを知らされました。その彼らの耳に聞こえてきたのが、沈黙の夜空を突き破って響き渡る天の讃美の大合唱であったのです。
「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、御心にかなう人々に平和があるように。」

4.新しい讃美の歌が湧き上がる
 羊飼いたちは言います。「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか」と。そして飼葉おけの中の幼な子と出会いました。
羊飼いたちの心に大きな驚きと感動が生まれました。神の子が飼葉おけの中でお生まれになった!神の子が玉の寝台でお生まれになったならば、彼らの心にそれほど大きな感動は起きなかったかもしれません。しかし彼らが見たのは、馬小屋の飼葉おけの神の子でした。飼葉おけ、それは彼らの日常生活の舞台であります。彼らの生活のただ中に神の子が生まれたもうたのです。飼葉おけは彼らの貧しい心です。私たちの心の象徴であります。私たちのもとに、私たちの心に神の子がお生まれになる驚きの感動です。
彼らは、神をあがめ、讃美しながら帰ったと書かれております。クリスマスには沈黙が支配していることをお話いたしました。しかし、この驚くべき出来事を見ることを許された者もやはり沈黙してしまうのではないでしょうか。それは説明をしたり、余計なことをしゃべりだすことをいとうような沈黙、本当の喜びに満ちた者にしかできない沈黙であります。説明などありません。口を破るのは、ただ讃美、新しい歌声であります。祈り、心を高くあげ、沈黙する者のみが歌声をあげることができます。羊飼いたちは、神をあがめ、讃美しながら帰って行き、闇の力におさえこまれている周りの人々をも、喜びの歌の輪に包み込んで行くのです。
天上の光が天の扉とともに再び閉ざされました。しかし羊飼いたちにとって、この地上をどれほど闇の力が再び支配しようとも、もはや闇の力は打ち破られたのであります。「やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ福音書1章5節)のです。究極においてこの世を支配するのは決して闇ではありません。光であります。しかもその光の子が闇の中に生き始め、私たちとともにおられる!この事実を知った羊飼いたちは、かつてのように諦めのうちにあり、闇の中にまどろんでいる存在ではもはやありません。喜び歌い、天の御使いたちの群れに加わるのであります。この羊飼いたちに、きょう私たちは私たち自身の姿を見出さないでしょうか。
 現在の日本社会は疲れきっているかもしれません。しかし羊飼いたちも喜びの歌声の中に引き入れられ、そして「この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた」のであり、「見聞きしたことが、何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、また讃美しながら帰っていった」のです。ここに光に打たれた新しい自由人の讃美と語り伝える生き方が始まっております。新しい生き方の誕生です。
 クリスマスは神の子の誕生です。そして神の子の誕生を知らされた者の心に神の子が誕生し、知らされた者が冬枯れの中で新しく生き始める時であります。閉塞社会をおおうやみ夜に天が破れ、新しく希望に満ちた人々が誕生するのであります。冒頭にお話したあおの少女は聖句を一所懸命覚えておりました。一度覚えた聖句は絶対忘れないのです。御言葉が心に宿るのであります。子ども修養会の時、この子だけがテーマ聖句を覚えていて空で言えたのです。その時クラスの子たちから一斉に祝福の拍手が起こりました。私は本当に神に感謝しました。ひとりの子が立ち上がるのは本人だけの課題ではなく、周りの理解と祝福あってこそであります。心に御言葉が宿ると、クリスマスに御子が宿るように、私たちは喜びの讃美をしていく者へと変わり、回りの者も変わるのであります。この子はその後立派な教師になりました。ほかの生徒たちもそれぞれの道へ。
いじめ問題は人間の心の内に、心の闇にあります。人間の心の中におおかみが小羊と共に住んでいるのであります。しかしクリスマスは、その中に小さなわらべが御言葉とともにお生まれになり、導き始めてくださる出来事を教えてくれます。かならず、おおかみと小羊が共に宿るときが来る、すべての人間の心の中において。そして小さなわらべが宿る人々は回りを変え始めるのであります。私は祈ります。まずここにおられるお母様方、保護者の方々の心に今年のクリスマスに、御子がお生まれになることを。そして、私たちの大切な聖学院小学校の児童たちの心にイエス・キリストが宿らんことを。それがこの国と社会を必ず良い方向へ変えて行くことでしょう。We have a great dream, too. 私たちもまた大きな夢を抱いてまいりましょう。

投稿者 admin : 2006年12月21日 15:02