聖学院教育会議開催にあたって

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学校法人 聖学院 理事長・院長 大木 英夫

聖学院は会議で教育の問いに取り組む

 あるとき、教育会議よりも、院長の方針を示す方がよいのではないか、ということを言われたことがありましたが、わたしは、それをお断りしました。聖学院は「会議」で聖学院教育の問いと取り組む、それは重要な意味をもっていると考えているからであります。中世から近代への変化の時代に、「会議」ということが特別の意味を帯びて登場しました。それはピューリタン革命の中で新しいイギリスの国のあり方をめぐる憲法会議であります。1647年10月末に開かれたパトニー会議であります。もちろんそれまでも会議がありました。しかし、これは、そこにリンゼイが近代デモクラシーの源流をみた会議でありました。この記録は、聖学院大学総合研究所の大澤麦氏によって邦訳されて、聖学院大学出版会から最近出版されました。そこに見られるのは、中世の教皇の「回勅」の宗教とでも言われるような行き方と対比され得る、「会議」の宗教の台頭であります。日本でもむかし教皇の「回勅」に類似した形で出された「教育勅語」という天皇の詔勅がありました。それではなくて、聖学院は「教育会議」で行くのであります。古い日本の行き方を小さく聖学院の中でするようなことは、聖学院教育のとるべき道ではないと考えているからであります。

 会議というのは、「ひとり」で考えるのではなく、「みんな」で考える、「ひとり」で反省するのではなく、「みんな」で反省する、「ひとり」で問題を解決するのではなく、「みんな」で問題を解決するという方式であります。孤独な思惟ではなく、共同の思惟であります。

What? How? Why? 三つの問い

 とくに会議は、問題と取り組むための設定であります。問いを共同で考え、それに答えることを企てるのであります。三つの問いの立て方があります。英語で言えば、What?という問い、How?という問い、Why?という問いであります。第一は、聖学院教育とは何か、という問いであります。第二は、聖学院教育は如何になされるか、という問いであります。第三は、聖学院教育は何故必要であるか、という問いであります。

1)What?

 まず、聖学院教育とは何かという問いですが、はたして今日このことがはっきりしているでしょうか。私立学校は、いわゆる「建学の精神」と言われるものをもって設立されたものであります。それが長い歴史の中で希薄になり或いは忘却され或いは喪失されることもあります。しかし、今日、それが問い直されることが求められているのであります。一体聖学院教育とは何か。これが分からないと、聖学院という教育の場において「何」をしているのか分からなくなるのではないでしょうか。だから、この会議では、まず、「聖学院教育とは何か」を明確にするのでなければならないと思います。

2)How?

 しかし、それは教育の現場から離れた議論であってはならないのであります。聖学院教育は如何になされるべきか。それが問われねばならないのであります。かつて日本では「如何に」という問いが軽蔑されておりました。もちろん近頃はHow-toものが流行しております。これだけを切り離して論じるのも正しくありませんが、しかし、振り返って日本の大学の中にあった知的態度を見ると、研究者は、理論優先でありました。実践とか応用とか教育とかを二の次だという傾向がありました。それは古代ギリシャ哲学者の理論(テオリア=theory)が上で実践(プラクシス=Practice)が下だという考え方から来るもので、長く西欧の学問の中にあった考え方の影響に過ぎないのであります。しかし、アメリカではこのような偏見はなく、プラグマティズムという言葉があるように、プラクティカルなことを重要視しておりました。教育は、当然How-toの次元にかかわるのであります。教育問題の検討は、この次元に触れざるを得ないのであります。そこで、特に教育の場面で、Whatという問いへのフィード・バックも起こるからであります。

 最近、有名な日野原先生が、東大や京大の医学部は研究の分野では世界一のレベルにある、しかし医療の面ではだめだ、ということを論じられた記事を読みました。最近わたしは入院生活をして、そのことを患者の側から体験的に知らされていたので、この説を興味深く思いました。医学は元来whatの研究と、医療のHowとが結びつく分野の典型でありますが、その問いに断層があって、それは活断層のように、医療ミスという地震、時には大地震を起こすのであります。しかし、それは教育の分野でも同様ではないでしょうか。教育の分野にもその活断層があって、これほど科学技術の進んだ国の中で、医療ミスと並んで、いやそれ以上に悲惨な教育ミス事件の大地震が起こっているのであります。

3) Why?

 Whatの問いとHowの問いは、このように連関があるのですが、それをもっと深く問い詰めて行くならば、かならずやWhyの問いへと至ります。何故聖学院教育か。それは聖学院教育の存在理由の問いであります。何故聖学院教育は、今日の日本に必要であるのか。最後に、聖学院教育会議は、この問いを問わねばならないのであります。もし聖学院教育が、この時代に不可欠のものであるならば、この教育機関は、存続の必然性をもつのであります。またその必然性が、教育する者たちにとっては、聖学院教育の確信となり力となるはずであります。教育を受ける者たちにとっては、新しい日本を、また新世紀の世界を背負う次の世代は、聖学院で学ばねばならないという理由を与えるのであります。聖学院教育会議は、この必然性、この「ねばならない」を掴まねばならない、この「必然性」を捉えねばならないのであります。

「教育共同体」の形成に向かって

 この三つの問いが、聖学院教育会議で問うべき問いであります。この教育の荒廃の中でこそ、国家が上から、あの教育勅語の方法で強制するのではなく、民間が自発的に決める、そのようなコペルニクス的転回が日本の教育界に起こらねばならないのであります。それをまず聖学院で始める、だから、聖学院は「会議」で行く。それは、会議によって、聖学院の中に「教育共同体」(本田和子教授の言葉)が形成されるはずだからです。聖学院は、この会議を通して、Vision with Communication、聖学院教育へと召された教育者相互の生き生きしたコミュニケーションをもってヴィジョンを共に見ること、また共通のヴィジョンをもつゆえに結びあうコミュニケーション、Communication with Visionをもつことを目指すのであります。それは、聖学院のスクール・モットーにあるように「神を仰ぎ、人に仕う」、新しい日本の形成のため愛をもって仕える教育共同体、歴史の支配者である神を希望をもって仰ぐ教育共同体となって行くことを願うからであります。

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