聖学院教育が目指す方向について_2

 聖学院教育が目指す方向について(第3回聖学院教育会議講演)

  この「前向き」の中での「後ろ向き」という矛盾が、日本の将来を見えなくしているのであります。今日「人間の問題」が出てきたのは、戦後政治が日本国憲法と教育基本法とを遵守し、それを実現することを怠 ってきた結果ではないでしょうか。大塚久雄が『近代化の人間的基礎』という書を書いたにもかかわらず、自民党主導の経済復興 は人間的基礎なしでもできると思ったことが、戦後物語となったのであります。

 ヴェーバー理論が反駁されたと思ったのです。たしかに経済復興は可能であります。というの は同じ現象はのちに韓国、中国、マレーシアでも起こったからであります。マレーシア のマハティールは、「ルック・イースト」というスローガンを掲げ、日本や韓国に眼を向けました。しかし最近は、日本を反面教師として見習うというのであります。日本の問題は、戦後復興の成功物語の誇張、それは技術的経済発展にすぎないものを「日本的 経営」として誤って過大に言いふらしたことであります。

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 それは政治的作為というべき か、そしてマルクス主義の退潮とともに、日本主義が台頭したのであります。それが中曾根時代でした。それは所詮バブルに過ぎなかったのであります。日本主義を宣伝す る哲学者は、政府からその功績を認められて文化勲章をもらいました。バブル崩壊後、あの山一証券の崩壊から経済は塗炭の苦しみに巻き込まれて行く中で、中曾根氏は、自己の成果を守るために、日本主義をもって再建すると宣伝しはじめ、それに動かされた政治家たちがそれを教育基本法改正へとさし向けたのであります。それは政治 的欺瞞にさらなる欺瞞を重ねることになるのではないでしょうか。この不況や閉塞を教育基本法のせいにしたのであります。その欺瞞は、日本の真の問題を隠蔽し、そして 自民党の支配の永続のみに熱意をもつ大きな誤りに入って行くのであります。そしてそれが教育基本法改正への努力となるのであります。しかし、現実は深刻な人間 の問題として現れ出てきているのであります。この欺瞞が日本の将来像を見えなくするのであります。バブル時代の日本ナショナリズムの復興の政治的作為に隠蔽された問題、真の問題、人間の問題が出ていた、それが今日の問題なのであります。

 聖学院教育会議は、中曾根氏が教育基本法改正を主張しだし、そしてそれに迎合 する動きが見え出したとき、日本の将来を救おうとする決意をもって開始されました。 まさにこのようにして政治家の蒙昧がさらに悪化させるであろう「日本の問題」との教育家としての取り組みを聖学院でするため自発的に始めた教育改革の努力でありました。これを読んで戦後大塚久雄先生が『近代化の人間的基礎』という本で、エートスの問題を重視したことを思い出しました。エートスとは倫理的基盤とか社会的雰囲気を意味します。精神風土と言ってもよい、ヴェーバーが用いた言葉であります。「頭と心の改革」はそのエートスの改革を指しているのではないでしょうか。この人は、たしかに現代の問題を正確に捉えています。人間が問題だ、それが銀行問題にも出ていると見る、しかしそれは、すぐれて教育が取り組むべき課題ではないでしょうか。
 教育基本法は、戦前戦中のウルトラ・ナショナリズムの教育の失敗の反省から出てまいりました。それがどのようなものであったかは、聖学院はその歴史に悲しみと痛みの経験としてその身に帯びているのであります。それは女子聖学院への弾圧、当 時の教頭小田信人先生が「敵を愛せよ」というイエス・キリストの教えの発言の有無をめぐる憲兵隊の過酷な拘留訊問であります。たしかにこの中間報告は「国家至上主義的考え方や全体主義になってはならない」という意見の所在を記してはいます。

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 しかし、日本の愛国心はそれに容易に転化する素質をもっていることは、これを推進する者以外はよく知っております。日本は戦後、先進諸国と「共通の価値観」の上に立つことをもって、その仲間入りを果たしました。それは憲法と教育基本法の故ではないでしょうか。あえて教育基本法を改訂する、それは日本をそのような先進国と「愛国心」をもって区別することへと至るのであります。

 

 この動きが日本の将来を不幸にする転轍を意味することを、日本が今日進めている構造改革というグローバリゼーションの動きに対して、逆噴射をかけるからであります。それは戦前の日本の指導者たちが、世界史の見方、世界情勢の認識において誤りを犯したことと同質の問題を含んでいるからであります。日本人はなぜそのような誤りに陥りやすいのか。愛国心が眼をくらませるからであります。卑近な例を挙げましょう。最近松井選手の大リーグ行きが話題となっております。スポーツ選手は、たとえばサッカーなどではすでに移動、移籍がどんどん起こっています。学者、経済界、外国企業などで働く人もそうです。スポーツだけではない、産業界、金融界、いたるところに起こっている、日産の再生は外国人の仕事であったことなど。しかし、これは単なる一時的現象ではない、日本国憲法の第二十二条は居住・移転・職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由を規定しております。「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、または国籍を離脱する自由を侵されない」。移住の自由ということ、このことは何を意味するでしょうか。古い時代、たとえば農村社会には移動の自由はありませんでした。

 まず移住ということが最近の世界の姿を変えた事実を思い起こしていただきたい、そ れは1989年夏の東独の人々の大移住のことであります。それが東ドイツの崩壊となりました。ちかごろ北朝鮮からの亡命者が続出しております。それだけでない、移動の自由とは実は深い形而上学的衝撃でもあります。転校するこどもがそのような形而上学的衝撃を受けるのであります。自由とは何か。哲学的に言えば、それは自然から 自由への変化であります。しかし、ここでこのような哲学的議論はさておき、この移住の自由がもっている現実的な意味を考えてみたいと思います。

 それは、この自由において、国家さえも選択の対象となるということであります。最近では学校が受験生を選ぶのではない、受験生が学校を選ぶということが語られています。それは少子化と いうことによるよりも、自由化の進行によるものなのであります。この目に見えない社 会変動の動向を「自由化」とよぶことができるのであります。「規制緩和」とは自由化の別名であります。

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 なぜ教育基本法の中に愛国心を入れるのは問題なのでしょうか。グローバリゼーションの背景を考えれば分かってくるはずであります。それはひどい時代錯誤の思想だからであります。大体このような時代錯誤をする者は硬直した知性の持ち主が多いので、具体的な例を挙げてみたいと思います。「日本人」とは何か。それはい わゆる天皇を中心とした「やまと民族」のことでしょうか。それ以外は誰も日本人にな れないのでしょうか。「アメリカ人」は元来はいなかった、しかし、アメリカ人になる・・こ とができるのであります。アメリカ人になるのは、アメリカのもつ理念に賛同するからであります。日韓併合という、日本にとっては偽善以外のなにものでもなかった、そして韓国にとっては苦悩以外のなにものでもなかったあのいまわしい時代を思い起こしてみていただきたい。李泳根(上田達男)という人の書いたものを読んだ。この人 は「皇民」になろうとするのです。日本人以上に日本人になろうとして少年飛行兵を志願するのです。しかし、日本人は差別した、朝鮮総督府は「内鮮一体」を口では言い 国民は「内鮮平等」を拒否するのであります。「日本人」は他者を「日本人」にしない・・・のであります。なぜすでに実験済みのあやまりを繰り返すのでしょうか。日本は、日本国憲法や教育基本法によって、新しい理念の国に変わって行く、それが敗戦後の決意、国民的願望ではなかったでしょうか。アメリカ人の愛国心は、民族的ではなく、理念的であります。自由か死か、そのようにして自由の国を愛する、それは愛に値いするからであります。国が選ばれる、だれも北朝鮮を選ばないでしょう。日本が選ばれるようになる、それは教育基本法の理念を真摯に実現する以外にないのであります。それは深く人間の問題、国民教育の問題なのであります。この課題を回避して、日本は将来ほんとうに「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたい」という国民的願望を達成できるでしょうか。この崇高な願望を、この教育基本法改訂においては「国 際社会における自国の地位を高めようとする努力」というナショナリズムへと換骨奪胎しているのであります。

 

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